何も残らない
「だいたいアイツの生き方が嫌いなのよ」
母の言葉に目を丸くした。そして周囲を見回した。 病棟の四階にあるラウンジには人がいなかった。夕方の五時をまわり、面会者はもう帰っていて、患者たちも自分の病室に戻っていた。もうすぐ夕食の時間だ。
秋の初めの、まだ勢いのある残暑の夕日がラウンジの温度をわずかに上昇させていた。
入院患者は、この時間帯が最もヒマである。せめて夕食までは世間話につきあおうと思った。それが運の尽きだった。
「生き方が気に入らないって、自分の息子じゃんよ」
と弟をかばう言葉が出そうになったが、呑み込んでしまった。
家族は所詮他人だ。それを思い知らされた二十年だった。他人のことを嫌おうが他人の勝手だ、とかばおうとした瞬間思った。もちろん、嫌いな気分が昂じて殺そうすれば、とどまるように説得の努力をするだろう。それは孝心というより物心両面の面倒を回避したいからだ。
口を開くと余計な説教をしてしまう。ラウンジの全面ガラスの窓からは枯れるには間がある緑が見えた。窓に近づいて病院の周囲を見る。市街地からは少し離れた丘の上にある病院からは郊外の風景が見えた。全体的に整地されていて、田舎の緑にいるというより、緑地公園のなかにいる気分になる。左手にはゴルフの打ちっ放し練習場の高いネットが見える。左手には最近できたショッピングモールが大網街道に面して建っていた。足下には県の衛生研究所がある。建て替え工事中で周囲には足場が組まれていた。
「もう病室に戻るからね」
何も反応せずに外を見ているわが子に業を煮やしたかのような声だった。 うん、という気のない返事をして、後に続いた。そのまま、帰ろうと思った。また来るかはわからない、と思った。治療の経過もよいようだし、もう来なくてもよいだろうとも思う。が、情に駆られてまた来てしまうのか。
初めて見舞いに来たとき、自分の入院のときの感覚に引き戻されそうで、病院に着いてもすぐに母の病室へは行けなかった。病院の敷地の丘を囲むように道が通っている。病院から谷底へ降りてゆくように坂が続く。
病院の周囲の緑を眺めながら坂を下った。広葉樹が多かった。枝葉を眺めるとまだ夏の勢いがあるが、足下には木の実が散らばっていた。手に取ってみると、クヌギの丸い実であった。帽子のようなガクがついていた。手のひらでコロコロと転がしてみる。まだ若い実が落ちたようであった。足下をよく見ると、コナラの実やマツボックリなども落ちていた。そうはいっても蝉の声はやかましいくらい頭上から降ってくる。そのちぐはぐさに季節の変わり目を感じた。季節が変わってすべてが変わる。
病室に行くと少し枕の方が上がっているベッドに母親は腰掛けていた。二十年ぶりに会った母親は記憶よりも随分小さくなった。自分のその月並みな感慨になぜか動揺していた。もっと再会とともに険悪な空気になり、不義理をののしられるのかと思っていた。そのときは黙って受け入れようと思っていた。そうして二度と来なければよいと思っていた。
家族だからと、何でも言い合えるのは、「家族だから」ではなく、「仲が良い」からである。「仲」が違えば途端に関係など崩壊する。人間関係などもろいものだ。
久しぶりに会った老母は治療のつらさを語り、今はもう離婚して戻った実家について語った。無難な話の裏で、自分の負い目を母は自覚しているようだった。始めに、「仲違い」できなかったおかげで、週一回は見舞いに行くことになってしまった。 話を聞いていて、なぜかこの人は私に執着しているのかもしれないと感じた。母が私に気を使っているかもしれないと感じた。 平日の夕方、人もまばらなラウンジでソファにちょこんと腰かけ、老母は雄弁に語った。身体は小さく、頭も頂きが薄くなって、昔のような威圧感はすっかりなくなった。だが、そのくせ老母の口は往時のようにくるくる軽やかに回った。
それを聞きながら、どうして弟は嫌われたのか、と考えていた。
弟と最後に会ったのは私が二十歳の頃だった。お盆に祖父母の家に親族が集まるのが恒例であった。その帰りに弟の車で送ってもらったときだ。そのときよく乗せてもらっていた友人の車に乗るときの癖で、シートベルトをしめてしまった。すると弟が「なんだよ。オレの運転が信用できないのか」と言った。乗ったことない、と思いながら、「マナーだよ。あんまり気にするな」と流した。弟は高卒で働いていた。私は大学生だった。
なんだったか忘れたが、パンクが車内に流れていた。弟はもともと私には理解できない音楽の嗜好があった。部屋には流行りのお笑い芸人の曲や尾崎豊のCDが転がっていた。リズムとかグルーブより、歌詞の方を重視しているように感じた。大量にCDが転がっているのだが、その金の出所はよく分からなかった。
もう遠い思い出で、いったいどこへ向かって弟が車を走らせていたのかも忘れた。確か、地元が田舎すぎて交通の便が悪かったので、そうではない辺りまで乗せてもらった気がする。千葉駅だっただろうか。
就職する前の弟なら、とっくに話が途切れていただろう。叔母曰く、弟は子どもの頃はよくしゃべったが、中学生になってから寡黙になったのだそうだ。対照的に私がよくしゃべるようになった。
就職して気が楽になったのか、再びよく話すようになったらしい。ものすごく神妙な面持ちで、自分の下半身に対するコンプレックスを告白された。ことをいたした後には、すぐにパンツをはくという下りで思い切り笑ってしまった。
車窓には千葉市街地の町並みが流れてゆく。大網街道という、千葉県の中央部を横断する道路ではなくて、いったん海沿いに出てから再び戻るルートを取った。海沿いの道は片側三車線で、ゆったりしている。
「なあ、就職して楽になったか」
ずっと聞きたくて聞けなかったことだ。
「ん? どういうこと」
「いや、家出てさ」
「そりゃまあね。給料安いからいずれ辞めたいけどね」
「まあ、大手だからさ。少し我慢じゃないの」
あまり知られていないが、工業高校にもランクがある。馬鹿とくずの吹きだまりになる工業高校もあれば、そうでなくてきちんと技術と知識を習得する工業高校も存在する。弟はスポーツ推薦でそういう工業高校に行った。そのコネで大手の重金属系の会社に入っていた。
「で、辞めて何やりたいの」
「いや、特に決めてない」
高校生になってから、なにか理由があって、母校の中学校へ行ったことがある。「弟がお世話になっています」と言うと、元担任も含めて、全員が驚いた。そう、我々はあまりにも似ていない兄弟だ。
弟は体育会系、兄は文化系。
弟は理系、兄は文系。
弟は結構モテる。兄は告白されたことがないわけでもない。モテるわけでもない。
弟は痩せていて、兄は太っている。
教師が見抜けないのも頷ける。叔母の目には変化したように見えて、弟の内面はあまり変化していない気がした。場当たり的というか、享楽的というか。それは短所に見えて、長所だと兄からは見えた。兄は逆に考えすぎるところがある。
「決まってないなら、まだ修行だろうな。まだ入ってそんなに経ってないんだから」話を聞くに上司にもかわいがられ、人間関係には問題がないようだ。
「なんかさ、でかいことやりたいんだよね」
でかいことをやるには専門的な知識が要る。また弟が持ち合わせていない、細心な神経が必要だ。だが、正直本気ではないのだろうと思って、笑っていた。
「お前大学進学のときもそうだったな。行き当たりばったりで」高校から六大学進学の推薦があると知らされた。母親は信じていなかったが、兄から見て弟は馬鹿ではない、と言ってあった。その馬鹿ではない弟がそこそこの勉強はこなしていたのだろう。
だが、弟は推薦を蹴る。条件として、サッカーを続けることが入っていた。つまり、スポーツ推薦だった。母親に説得するように頼まれた。
「どうして大学に行きたくないんだ」
弟の部屋で万年床に座る弟に向かって聞いた。
「いや、勉強に一切興味がない」
そう言われて、何も言い返せなかった。
「じゃあ、しょうがねえな」
まだ、大学進学が三割程度であった。つまり七割近くの人間が大学に行っていない。わざわざ勉強が嫌いなのに、大枚をはたいていく必要はない。いや特待生か。グダグダ言い訳を重ねない潔さに少し感動しながら、そう母親に告げた。
「勉強したくないならしょうがないでしょ」というと、二度と文句を言わなくなった。母親も母親ですぱっとした性格だった。だが、本当は言わないだけで、腹の底にわだかまりとなって残っていたのだ。
「まあ、大学行っても仕方ないよ」そうかね、と生返事をした。兄弟の久しぶりのまともな会話はそうやって終わった。
ある日、話を聞いてくれ、と母親に言われた。私が高校生の頃、弟は中学生だった。
中学生になってから、親に金の話しか聞かされていないので、また金の話かとうんざりした気分だった。居間のこたつに入って、話を聞いた。たぶん母親も途端に私が不機嫌になったのことに気づいただろう。
「なんだよ」とつっけんどんに聞いた。
「ほら、アイツの部屋にマンガいっぱいあるでしょ」
「ほう、三国志」
「あれ、私の財布から盗んだ金で買ったみたいなの」
聞いて、大爆笑してしまった。三国志のマンガとは横山光輝の三国志であった。全巻そろえると六〇巻になった。一冊、五、六百円はするだろう。合計で三万円超。それにしてもコツコツ抜いたものだ。それに。
「それだけ金抜かれて、気づかない方も気づかない方だよ。それでか。異様に早く揃っていくなあ、と思ってたんだよ。それにしても。ひっひっひっひ・・・・・・」
「笑い事じゃないでしょ」
弟が泥棒にでもなるというのだろうか。なんとなく、あの男のこと、悪いことは悪いと分かっているように思う。第一、よくオヤジが酒が飲みたくて母親の財布から金を抜いていくのを私も弟も見ていた。それでは躾も何もあったもんじゃない。
「アンタは止めなよ」と私をにらんで釘をさした。周回遅れの忠告だった。
結局中学生になって、我々兄弟は接点を失った。未練があったかというとそうでもなく、再び会えば、普通に話すのだろう。と私は期待しているが、それも望めないかもしれない。あのさっぱりした男も、さすがに怒っている可能性はある。両親は離婚することも、実家を処分することも、一切息子たちに知らせなかった。反対でもすると思ったのだろうか。そりゃそうだ。子どもにとっては実家でも、両親にとっては実家ではない。実家はそれぞれ別にあった。弟は私には両親が連絡を取ったと思っているだろう。実はそうではなかった。 ただ、その実家こそが、我々の接点を奪ったのかもしれない、とたまに思う。どうせ子どもが大人になると、寝るだけの場所になるんだから、贅沢に作る必要はない、という間違った思想で作られた家だったようだ。
結局、家族は誰も家に愛着を持たなかった。
だから、自然とバラバラになった。
小学校五年になると、クラブ活動が始まる。
弟はサッカーを始める。
私もその頃には中学生になり、リボルバーから飛び出した弾丸のように、家の外に世界を拡げつつあった。実らなかったが、恋をして酒をおぼえたころだ。面白いことに、私が中学時代には私があまり家におらず、私が高校時代になると弟が家にいなかった。サッカー部の練習である。
お互いに寂しいとは思わなかった。生活に夢中だったからだ。
弟は中学時代、サッカーで県の代表で、韓国遠征に参加するような選手になった。
兄はそこそこの進学校に進学する。
親としては楽な兄弟だろう。
一度だけ、弟の中学――私も卒業した中学だが――の試合を見に行った。選手層が薄くて、連戦で疲労が蓄積しているのか、フィールド・プレイヤーの多くが足をつっていた。それでは試合になるわけもなく負けて、中学三年の夏の大会は終わった。このときに、弟はサッカーを一生続けるという意思を喪失したようだ。そんなところは、兄も似ている。すぐに妙な達観をしてしまうのである。
同じ頃、母親は猫を飼うようになる。うっとうしいと思っていたが、息子が外の世界に出て行くと、妙に寂しくなってしまったのだろうな、と感じていた。
結局、今となっては何も残せなかった一家であった。だが、それはそれでサバサバしていてよろしいとも思う。
ーー了ーー(四九八四文字)