中田カウスさん
先ほどから、AERA.dot拙連載で中田カウスさんのインタビューがアップされています。
コロナ禍での劇場の意味。そして、今こそ見える芸人の意味。
50年以上、舞台の最前線で戦って来られた漫才師としての凄みが凝縮されたお話でした。
これまでも、何度もカウスさんの記事を書かせてもらいましたが、記事を出す度に、ネットではいろいろなコメントが記事に寄せられます。
もちろん、こちらが書いた記事に対して、どんな思いを抱こうが自由ですし、そんなことは大原則の中の大原則です。
ただ、カウスさんの記事の場合、なんというか、僕がラジオなどでよく使うところの“雑味”が具現化したようなコメントが多く見られます。
いろいろな報道などから生まれたカウスさんのイメージがそういう流れを作るのかもしれませんが、僕からすると、お話を伺うのが非常に楽しみな芸人さんのお一人です。
書き手として思うのは、とにかく、原稿が書きやすい。お話にブレがなく、説得力と覚悟に満ちているので、大間の本マグロの赤身のように、そのまま切って出すだけで迫力のある料理になる。こちらがアレコレ調理を加えずとも、素材の良さが際立つ。そんなことを、取材のプロとして、シンプルに思います。
こんなことを綴ると、忖度だのなんだのという言葉がまた出るのかもしれませんが、プロの凄みということをカウスさんを取材するたびに痛感します。今回もそうでした。それこそ、こちらもプロとしてそこは断言します。
毎日、生きた心地がしないのがこの世界ですよ。ホンマにね、生きた心地なんてしませんよ。売れるまでは「いつになったら売れるんやろう……」と思うし、売れたら「いつまで続くんやろう……」と思うしね。漫才やったら、自分が気を付けていても、相方にどんなことが起こるか分からないし。
そして、そんな中でいつも考えておくのがお客さんのことです。それがプロです。芸人はね、家から一歩出たら、もう自分じゃないですから。人の喜びをもって自分の喜びとする存在ですから。常に、とにかく楽しんでもらう。
だからね、よく“プライベート”なんて言葉を聞きますけど、プライベートなんてないよ。あるわけがない。いつからそんなことを言うようになったんやと思います(笑)。
答えがある。
それがプロのプロたる所以なのかもしれません。
96歳で亡くなる直前に「女の醍醐味はアヒル口である」という答えを見出していた祖母を反芻する46歳。