自信とは何か。
自信とは、
①行動による良い帰結(成功)から生まれる安心感、
②自分で塗り固めた”嘘”(根拠なき自身・虚栄心)
があると思っていて、①がないうちは②で行くしかないが、②は他人に突かれたら、簡単にくずれおちてしまう。よって、②を守るためにひたすら逃げる、は自己満人生を歩みたいならお得。
「生きるとはなにか」を考えて、「生きるとは、自己満足である」であれば、ただ逃げるのみ。
というか、ぼくは自己満足こそが人間―動物―の本質だと思っている。何を信じて何を受け入れないのか、なにが好きで何が嫌いか、の判別って自己満足じゃん。
じゃあ、自己満足でありたいために、すべて逃げるのか。
それは違う。われは社会的空間(社会を「人々の相互作用におけるネットワーク」と定義)の1人であり、空間内の物質を無視するわけにはいかないからだ。
よって、”わけのわからない”物質的作用を無視せよ(つまり逃げろ)、というのが私の考えだ。
じゃあ、なにが”わけのわからない”のかというと、
①自分の信念にそぐわないもの
②そこから生じる感情的批判
だと私は考える。
つまり、逃げるべき対象はその①または②を満たすもので、それ以外のもの、つまり①と②を同時に満たさないものについては、苦しくても受け入れよ、というものだ。
ただし、グサッとささることを言われて苦しいとき、すぐには①か②かそれ以外かを判断できない。時間をかけて言われたことを消化していく中で、自分の信念と溶け合わせるのか、それとも吐き出すのか、考えよ。
さて、抽象論だとイメージしづらいから、具体例をだす。
「そんなこと言って、失礼だろ」と言われたことが私はある。だが、そのとき、なにが失礼なのか分からず、ずっと考えても分からなかった。よって、それは失礼にあたらず、私はどうでもいいとして、その考えを却下した。
これは、②そこから生じる感情的批判、に該当する。「失礼だろ」という感情的批判。それが生じさせたのは、その発言者の信念であり、私はその信念に賛同しなかった。
すべてを受け入れて、自分の心―自信・信念―を破壊するな。
という、私の信念。