パンツァー・フォー的なあれではありません。
やたら広い道路
東京都大田区の久が原という、大田区では田園調布に次ぐ高級住宅街と呼ばれる場所。
この住宅街に交通量が多いわけでもなく、バスが通ってるわけでもなく、国道等の主要道に繋がってるわけでもないのにやたらと広い道路が一本通っています。(ヘッダの写真の道路)
以前この近く(別に高級ではない家)に住んでおり、長年その存在に疑問を持っていました。
都市計画の都合上、どこにも繋がっていない作りかけの広い道路と言うのはよくあるのでそれ自体は不思議ではないのですが…。
ある時、住んでいた家の大家さんがこんな話をしてくれました。
「この道路は、東京の真ん中が大変なことになった時、多摩川の土手に隠してある戦車が通る道なんだ」
「は?」
何を言ってるのか意味が解りませんね。
いくら道が広いからって、戦車が通る道???
多摩川の土手に隠してある???
その大家さんは別にボケるような人でも、おやじギャグをかますような人でもない人だったのに、突然そんなぶっ飛んだ話が出てくるのか?
と、信憑性がよくわからないものの、大家さんの人柄的にもそのまま受け流すには謎が残る話だったので調べてみることにしました。
道路の先にあるもの
この道路の名前は「大田区道27号線」。
大田区と品川区の区界を起点に、環八通りを越えた東急多摩川線の下丸子駅手前まで続く道路です。
この道路、確かに広いのですが、東急池上線を越える手前で細くなりそもそも直接多摩川には通じていない道路です。
ではやはり眉唾的な話なのか…。
もう少し地図を見てみます。
この道路の先にある下丸子の駅を越えると、下町雰囲気を持った住宅地の向こうの多摩川沿いにキヤノン本社や高層マンションが立ち並ぶ広大な土地が広がっているのがわかります。
こういった住宅密集地にある広い土地は元々あった「何か」を利用転換している場合が多く、高層マンションのような近代的な物以前に何かがあったことをうかがい知ることが出来ます。
調べてみると、以前ここにあったのは三菱重工東京機器製作所の丸子工場。
現在でも跡地に記念碑が残されています。
三菱重工の沿革を見ると1937年(昭和12年)にこの地に工場を新設し、翌年から戦車専門工場として稼働していたことが記されています。
繋がった…!
道路は繋がってないけど。
大家さんが言っていたことの1/3くらいしか合ってってませんが、あの道の先には戦車に関わりのある施設があったのです。
大家さんも当時を知るほどの年齢ではなかったので、時が経つにつれ伝言ゲームの様に内容が変化していったのかもしれません。
東京の真ん中へと続く道
さて、大家さんの言う「東京の真ん中で大変な事があったら」の真ん中とはどこの事か…。
下丸子とは逆側、区道27号線の起点は大田区の北端で途切れており、その先はここもまた細い道路となっています。
ですが、27号線の起点からを少し北を見てみると、太い都道が通っていることがわかります。そして起点から真っすぐ北に線を伸ばすとちょうどこの都道に繋がりそうです。
この都道は中原街道。
中原街道は北上すると五反田へ至り、桜田通りに接続します。
桜田通りをさらに北上するとどこに続くかと言うと、桜田門。
つまり、東京の真ん中とはそのまま東京のど真ん中の事だったんですね。
これで、大家さんの話から推測されるルートが確立されました。
大家さんが話していた事は「戦車工場から桜田門まで戦車を走らせることが出来る道」の事だったのかもしれません。
ただ、冷静に考えれば約15kmの道のりを戦車が走破するより、すぐそばに「市谷」があるのでそこから持ってきた方が手っ取り早いわけですが。
(そもそも工場では部品を作り、戦車は別の場所で組み立てられていた)
何が真実であるかと言う話ではないので、あくまで都市伝説的な話だと思えばいいわけですが、大家さんの与太話から憶測を混ぜつつここまで話を広げられるのは中々ロマンを感じるものがあります。
おわりに
この区道27号線、もっと時代をさかのぼると明治時代の地図にはすでに描かれている事がわかります。
「今昔マップ on the web」より
恐らく戦車の話とは関係なく、この地域の主要な道路としてさらに古い時代から存在していたのでしょう。
ある一本の道路の歴史を探るお話でした。