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【12】清酒醸造の科学的解明の歴史

 【7】清酒の製法的分類 において、清酒は麴菌と酵母の並行複発酵へいこうふくはっこうを利用して造られる、という話をしましたので、それらの微生物について紹介していきたいのですが、簡単に話をするなら他所のサイトを見ていただいた方が早いので、まずは少々マニアックな歴史的背景、主に明治時代の、西洋科学の移入によって清酒醸造が科学的に解明されていったお話をまとめたいと思います。その次に各微生物についての各論ですかね…出来るかな。
ヘッダの写真は後述します東京都北区滝野川の旧・醸造試験所の建物の写真を国税庁のサイトより転載したものです。

<おことわり>
外国人名や微生物の学名にとりあえずフリガナ振っていますが、異なる読み方をすることもありますので参考程度に…


西洋科学の移入

19世紀、日本では幕末から明治にかけて、富国強兵・殖産興業を目的として、欧米から近代的諸制度、科学、技術などの移入のために多くの外国人が雇用されました(=お雇い外国人)。
後述しますが、西洋科学において微生物学の研究が進んだのが19世紀半ば以後であり、その時期の科学が導入されることで、これまで‘“勘と経験”で行われてきた清酒醸造についても、西洋科学のメスが入っていきます。

貢献したお雇い外国人たち

1874年(明治7年)に来日したRobert William Atkinson(ロバート・ウィリアム・アトキンソン)をはじめ、Hermann Ahlburg(ヘルマン・アールブルグ)、Oskar Kellner(オスカル・ケルネル)、Oskar Korchelt(オスカー・コルシェルト)、Edward Kinch(エドワード・キンチ)ら複数の科学者が、清酒醸造の科学的解明に大きな役割を果たしました。
アトキンソンは理科大学の化学教師として来日しましたが、清酒醸造に大変興味を持ち、来日翌年には灘へ酒造見学の旅行をしたことが知られています。1878年には調査論文を、帰国前の1881年には「The chemistry of saké-brewing」という日本の酒類醸造における報文を執筆しています。なお、この書籍についてはSmithsonian Libraries(下記リンク先)でデジタルアーカイブとしてアクセス出来るようになっています。AmazonでもペーパーバックKindle版ともに取り扱いがあるようですね。中沢岩太、石藤豊太両名により和訳された「日本醸酒編」(東京大学による「理科会粋」の一部)については、国立国会図書館蔵書にあることが確認でき、2022年5月からは同図書館の利用者登録を済ませればweb上で閲覧が可能になりました。

酵母について

清酒の酵母こうぼについて、一言で「酵母」と言っていますが、正確には出芽酵母の一種であるSaccharomyces cerevisiaeサッカロマイセス・セレビシエを指しています(学名はイタリック表記が必要なのですがnoteの仕様なのか出来ません…誰かやり方教えてください)。以後も単に「酵母」と表現している場合は”Saccharomyces cerevisiae”を示すこととします。
清酒に限らず、ワインやビールなどのアルコール発酵するものは全てひっくるめて「酵母」としてまとめられています。何ならパン作りのイーストもこの「酵母」です。”得意分野”が違っても生物種としては同じ、という分類になっているようです。後述しますが、そこまで機能が違うのであれば別の種として分類すべきだという意見もあります。

酵母の発見

紀元前から既に酵母を利用した発酵飲食物が作られていたことが明らかになっていますが、その存在が判明したのはほんの数百年前の話です。
最初に酵母の存在を見つけたのは、17世紀後半のオランダのAntonie van Leeuwenhoek(アントニ・ファン・レーウェンフック)と言われており、単式顕微鏡による200倍の倍率での観察を行い、酵母をはじめ様々な微生物の存在を確認しています。
しかし酵母によるアルコール発酵など、その機能が明らかになるには19世紀半ばまで待たねばならず、それに最も貢献したのがフランスのLouis Pasteur(ルイ・パスツール)でしょう。全ての発酵過程は微生物活動に基づくものであると発表したのがパスツールで、また酒類の保存のための低温殺菌法の確立もパスツールによるものです(なお、日本人はそれより前に経験的に清酒の「火入れ」を行っていたことがわかっています)。

酵母という名前

ここまで「酵母」と前置きもなく使っていますが、英語では ”yeastイースト” であるところのモノが、いつから「酵母」と呼ばれるようになったのか。これについては2010年の日本醸造協会誌に解説記事として秋山裕一あきやま ひろいちによる文章が掲載されています。
「酵母」という単語は、1887年(明治20年)以降に発表されている西川麻五郎の著書等で「酵母」の記載があるのが最も古いようです。

 イースト(yeast)のことを日本でも中国でも、今日、酵母と呼んでいる。これは一体、誰が、いつ名付けたのか、明らかではない。
 そこで、筆者が調べたところでは、明治20年9月出版の西川麻五郎著「勧農叢書 醸造篇」の12~15頁に麦酒酵母とか酵母とかあり、33頁には「ブドウ糖は麦酒酵母の作用によりアルコールと炭酸ガスに変化す。今100分のブドウ糖を発酵せしむるときは、51.11、炭酸ガス48.89となる」(アルコールがぬけている)と。
(中略)
 同じ頃、西川氏は通俗工芸雑誌に明治20年8月号から「発酵論」と題して、数回連載しており、21年1月号に「発酵を急速ならしめんと欲せば、糖液に少しばかりの酵母を加ふべし」とある。今日のところ、西川氏がyeastを酵母と訳し、発表した初めての方だと思われる。

酵母という名前」(秋山裕一, 日本醸造協会誌, 105, (10), 653-654(2010))より

先述の「日本醸酒編」においても「yeast」の訳語として「酒母」「酒酵」「酵房」などが出てくるものの、「酵母」は用いられていません。
その後もしばらくは「酵母」「発酵母」「醸母」など様々な呼び方をされていた「yeast」が、西川の用いた呼称である「酵母」に最終的に落ち着いたわけですが(上記資料と別に日本醸造協会がまとめている「清酒酵母のはなし 06.「酵母」という名前の由来」<※PDFファイル>によると、1904~1905年(明治37~38年)頃には「酵母」以外の表現が見られなくなったとのこと)、そこに至った経緯も、西川が最初に言い出したものなのかどうかも判明していません。

清酒酵母の同定

醸造法の改良の科学的基礎を築いた古在由直こざい よしなおは、海外留学等も経て、1891年(明治24年)には、清酒の安定醸造のためには純粋培養した清酒酵母の使用が必須、とその重要性を説いていました。
古在らを中心に清酒酵母に関する研究が進められ、1895年(明治28年)には、当時大学院生で古在の下で研究を行っていた矢部規矩治やべ きくじが、古在と共同で清酒醪より清酒酵母を単離することに成功し、単離された酵母はSaccharomyces sakeサッカロマイセス・サケと名付けられました。ただしこの名称は1897年(明治30年)の英文の東京農科大学紀要の標題である"On the Origin of Sake Yeast (Saccharomyces Sake)"、それも括孤の中に記載されるのみで、酵母の名称としては文中で使われておりません。その後、1900年(明治33年)に古在がドイツ留学中に清酒酵母について論文で報告した際にも”Saccharomyces sake”という名称は用いられませんでした。その後の1908年(明治41年)、中沢亮治がドイツ・ミュンヘンの醸造試験所にて”Saccharomyces yedoサッカロマイセス・エド“および”Saccharomyces tokyoサッカロマイセス・トーキョー“の2種を発表した際に、初めて”Saccharomyces saké yabe”の学名が用いられています。
現在ではS. sake, S. yedo, S. tokyoのいずれも”Saccharomyces cerevisiae”に含まれるとされています。しかしあまりにも多種多様な株が”Saccharomyces cerevisiae”に分類されていることから、これらの”Saccharomyces sake”などを独立した存在とすべきだという主張もあります。

日本酒の酵母の学名は一般にSacch. sake Yabeと信じられている。しかし、この学名は矢部の論文でも本文中には記載なく、明治33年の古在の研究発表でも見られず(Sakehefeと記されているに過ぎない)、明治41年に中沢亮治氏が2種の清酒酵母、Sacch. tokyoとSacch. yedoを発表する時に初めて用いたものであるとされており、現在これらの清酒酵母はすべてSaccharomyces cerevisiaeまたはその変種とされて財団法人醗酵研究所に、IFO 0309(矢部)、IFO 0244および0249(中沢)として保存されている。

醸造試験所と技術の今昔 (II)」(村上英也, 日本釀造協會雜誌, 69, (10), 663-664(1974))より

また清酒酵母については、当初「こうじカビから酵母へ転換する」という説もありました。

 醸造法で20%近くのアルコールが出るのは、よほど特殊な微生物の力によるものであろうと考えられた。
 その頃、ムコールやリゾープス等のかびも液体培養をするとアルコールをつくることがわかっていたので、日本酒の醸造も製麴で固体培養された麴菌が酒母やもろみの仕込で液体培養となり、丁度ムコールやリゾープスが液体培養で嫌気的に培養されると菌体も酵母のような形態となって増殖しアルコール醗酵をやるように、日本酒のアルコール醗酵を司るものは麴菌が変態したものであると真剣に考えられていた。
 1895年、デンマークはコペンハーゲンのあの有名な酵母の神様とも言うべきCh. HANSENが居るカールスベルヒ研究所のアメリカからの研究生JOHN. J. JUHLERがCentralblatt fur Bakteriologie誌に予報としてではあるが "Umbildung eines Aspergillus in eines Saccharomyceten" と題して、Aspergillus orizaeは米澱粉を糖化するだけでなく、その胞子は更にアルコール醗酵をすると報告した。

清酒酵母の分類学的研究 (2)」(塚原寅次, 日本釀造協會雜誌, 56, (10), 1005-1003(1961))より

これは当時の酒母が生酛きもとであり、米と米麴は入れるが酵母を添加することなくアルコール発酵が始まるところに起因しており(実際は酒蔵環境内の酵母が酒母へ取り込まれるからなのですが)、それを主張したのがOskar Korchelt(オスカー・コルシェルト)で、高峰譲吉たかみね じょうきちも当初はその説を受け入れていました(後に高峰も誤りであったと認めています)。

Fermentationを温醸とし、発酵の文字も沢山出てくる。酵母との訳は見当らない。コルシェルトの後にいう酵母変換説、the mycelium fibres of the koji fungus have been changed into the ferment cells について、「麴粒の細毛変じて酵房となる」と訳して、後に論駁すると書いている。
(中略)
一方、コルシェルト先生は、当時の生酛が麴と蒸米と水のみの混合物から数日の間に急激に湧いてくることに驚き、上記したように麴の菌体が酵母に変る説を唱えた。この説は当時、ヨーロッパにあったそうだが、日本でもコルシェルト先生の考えに共感した高峰博士がこの説を信じた(後に1912年、誤りを訂正したが)。

酵母という名前」(秋山裕一, 日本醸造協会誌, 105, (10), 653-654(2010))より

この「転換説」にはアトキンソンや古在らが反対し、古在、矢部、矢木らの研究により、清酒酵母を純粋培養しても麴菌に変移せず、また麴菌を純粋培養しても清酒酵母が産れないことが証明されました。

御雇教師コルシエルトは、明治11年、麴菌の胞子が清酒酵母に変移してアルコール発酵を行うと発表し、これに対し、アトキンソンは明治14年、清酒酵母は空気中から伝染しまたは麴に付着したものであると唱え、その学名をSaccharomyces cerevisiaeとして説明した。麴菌胞子説に賛成する者は、高峰譲吉・ユーレル・エルゲンセンの各氏、酵母独立説に賛成する者はコーン・ピユスゲン・ハンゼン・ウエーマーの各氏であり、この論争は20年間近く続いたが、古在・矢部らの研究(明治28年)を経、クレッカー・シエーニング両氏の再確認により酵母独立説の勝利に終った。

醸造試験所と技術の今昔 (II)」(村上英也, 日本釀造協會雜誌, 69, (10), 663-664(1974))より

優良酵母の探索と協会酵母

清酒酵母の性質が清酒醸造の出来を左右することがわかったため、全国各地で銘酒を醸し評判の良い蔵から酵母を採取し、清酒醸造に最も優れた酵母を選抜して、それを用いて高品質で安定した酒造りを展開しようとしたのが当時の動きです。
その系譜が今も続く「協会酵母(きょうかい酵母)」なのですが、それについては後の酵母の話で詳しく紹介したいと思います。

麴菌について

日本では13世紀前半に大和国で「麴座」(種麴屋)が成立したといわれ、米に胞子を振って繁殖させる手法が確立されていたと思われます。しかしそれが微生物によるものであること、そしてその役割について明らかになるのは、やはり明治期以後の西洋科学を用いた研究を待つことになります。

麴菌の同定

1876年(明治9年)、ドイツ人のHermann Ahlburg(ヘルマン・アールブルグ)は東京大学医学部の博物学御雇教師として来日し、1878年(明治11年)に米麴から初めて黄白色のカビ(麴菌)を純粋分離しました。しかし間もなくアールブルグは急逝してしまい、その研究の成果は同僚のOskar Korchelt(オスカー・コルシェルト)や松原新之助により同年に報告されました。
米に良く生えることから、稲の属名であるOryzaにちなみ、当初は学名をEurotium oryzae とされましたが、後にFerdinand Julius Cohn(フェルディナント・ユリウス・コーン)によって再分類され、有性生殖をしない不完全菌であるとして、1884年(明治17年)にAspergillus oryzaeアスペルギルス・オリゼー と改名されました。
なおA. oryzae(黄麴菌)と異なる菌種として、1901年には乾環いぬい たまきにより泡盛黒麴菌がAspergillus luchuensisアスペルギルス・リューチューエンシスと命名されています。黒麴・白麴菌に関して、その名前について二転三転することになるのですが、それもまた後の麴の話で紹介します。

それまで「種麴」や「もやし」と呼ばれていたものが、微生物であることがわかり、これを日本語で何と呼ぶべきかという議論が起こりまして、黴種、蕈菌種、糖化菌などの記載(どう読むのかは不明)が確認されていますが、これが最初に「麴菌」と記されたのは1895年(明治28年)、矢木久太郎著「日本酒醸造法」(東京博文館)においてであり、矢木が古在の弟子、その指導で日本酒の研究をした人でしたので、最初の命名者は古在だったのではないかと考えられています。

麴菌が造る酵素

米麴の役割として蒸米の糖化作用が挙げられますが、これは麴菌が生成する消化酵素によるものです。高分子であるデンプンを、そのままでは酵母が利用できないため、酵素によるデンプン→糖への分解により酵母が利用できるようにしています。【7】清酒の製法的分類 にてざっとは記載しています。

1833年に初めて麦芽から抽出されたデンプン分解酵素ジアスターゼ(その主成分はアミラーゼであることがわかっています)について、麴菌A. oryzaeも生成することに注目して様々な研究を進めたのが先述の高峰譲吉たかみね じょうきちでした。
高峰は数々の業績を残していますが、中でも有名なのが、1894年にふすま麴からタカジアスターゼ(タカヂアスターゼとも;ジアスターゼに高峰の名を組み合わせたもの)を創製したことです。タカジアスターゼにはデンプン分解酵素の他、プロテアーゼ(タンパク質分解酵素)やリパーゼ(脂質加水分解酵素)も含まれており、胃腸の消化を助ける薬として今もなお広く用いられています。

高峰はこのタカジアスターゼ製造に着手する前に、渡米して麴菌を使った日本式醸造法によるウイスキー造りに取り組んでいますが、現地で強い妨害を受け頓挫しています。

米麹方式によるウイスキー製法の特許が成立、米国へ
 譲吉は、農商務省を退官して肥料製造に専念している間にも、日本の伝統的発酵技術の研究を続け、麹菌を利用してアルコールを作るという特許「(麹による)酒精製造法特許」を英国で出願、1887年に設立します。この特許は、これまでのモルトに代わり麹を使用し、麹菌の持つ強い酵素、ジアスターゼを活用して、醸造する方法です。
 翌1888年、フランス、ベルギーにて、1889年には米国で同特許が成立。この特許が元で、アメリカ最大手のウイスキー会社、ウイスキートラスト社(イリノイ州ピオリア)より現地にて技術指導をして欲しいと依頼されます。この頃、東京の深川で長男、次男が生まれます。
 譲吉は人造肥料会社がようやく軌道に乗り始めた時に、別の事業のため渡米することに躊躇していましたが、世界に向けて実力を奮って欲しいという渋沢栄一の励ましもあり、決意します。1890年、キャロラインと息子二人を連れた譲吉は、サンフランシスコ経由でシカゴへ旅立ちます。ウイスキートラスト社のシカゴ試験場を経て、本拠地のイリノイ州・ピオリアで醸造実験を重ね、実用化の試験を繰り返しました。新しい醸造方法は画期的なものでしたが、現地のウイスキー生産用モルト製造業者は自分たちの職を失う危機感から猛反発を展開し、1893年春、実用化を目前にして実験棟を不審火で焼失してしまいます。混乱の最中、ウイスキートラスト社は株主が分裂し、解散が決定。新方式の醸造方法開発は完全に中止となってしまいます。失意の中、持病の肝臓疾患が再発し、長期入院という悲運にも見舞われ、譲吉の人生設計は大きく頓挫してしまいます。

特定非営利活動法人 高峰譲吉博士研究会 webサイトより

これは麦芽に比べ米麴の方が短期間で製造でき、日本式の醸造方法であれば蒸留前の”もろみ”においても、より高濃度のアルコールを得ることが可能とした製造法であり、もし実現していれば焼酎と同様の製造法でウイスキー造りが行われていたはずだ、とされています。

高峰はウイスキー製造が頓挫した後も、酵素ジアスターゼの活用法を模索し続けました。そして体内の胃袋でもこの酵素が作用し、食物のでんぷんを消化する働きがあることを突き止め、胃腸薬「タカジアスターゼ」の工業生産法を研究助手の清水鐡吉の協力を得て完成させています。

醸造試験所の設立

これらの醸造微生物の研究が盛んに行われていたのは主に大学であったのですが、1904年(明治37年)に酒税の税源涵養ぜいげんかんようを目的として、大蔵省の管轄下にて官立の醸造試験所が設立され、清酒の品質及び醸造方法を改良するため、麴菌や酵母といった酒造微生物の研究が国によって行われるようになりました。

設立の背景

明治時代後期、酒税が国税に占める割合が非常に高く、1899年(明治32年)には地租ちそを上回り税収の1位となっておりました。そのため、国としても清酒の安定醸造に力を入れる必要がありました。

地租・所得税・酒税の割合と酒税の税率(1石当り)の推移
(出展:帝国統計年鑑、主税局統計年報書)
国税庁webサイト 租税資料「1.明治前期の酒税」より転載

【11】清酒の価格構造について でも触れましたが、今は酒税は出荷量に対して課税されています(「庫出くらだし」)が、当時は「造石ぞうこく」となっており、造られた酒の量で課税されていました。腐造が起こると、蔵元も大損害を被りますが、酒にならなかった分だけ国も税収が減ることになってしまいます。そのため、清酒の安定醸造と生産量の増加が国の必須課題とされていました。管轄省庁が大蔵省となったのもそのような背景があります。

所在地の移転、独法化

東京府北豊島郡滝野川村(現・東京都北区滝野川)に設立された醸造試験所ですが、1988年(昭和63年)の「国の行政機関の移転について」の閣議決定により移転対象機関に指定され、1995年(平成7年)には「醸造研究所」と改称して広島県東広島市に移転し、2001年(平成13年)の独立行政法人化により「独立行政法人酒類総合研究所」として、酒類に関する様々な研究や取組が行われています。

この移転先が東広島市になった件について、候補地の検討に関する資料を何処かで見た気がするのですが、見つかりませんでした…。
東広島市と書くと分かりにくいのですが、酒どころとして有名な西条と書けば分かり易いですかね。ただし、酒類総合研究所はJR西条駅前の酒蔵地域からは少し離れたところにあります。

なお、設立当時の赤レンガの酒造工場(トップ画像のもの)は今も滝野川に重要文化財として遺されており、公益財団法人日本醸造協会の管理下で施設貸出も行われています。

歴史的なエピソードとしてはだいたいこんな感じです。
酵母や麴菌について、次回以降まとめていきたいのですが、より学術的に掘り下げていく上に”貯金”はほぼ使い果たしたので、次は時間がかかりそうです…。

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