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人間関係に疲れる不器用な人
人間が持つ悩みのほとんどは人間関係であると言われたりするが、自分は不器用だから人間関係に疲れると感じている人は多いのではないだろうか。
仕事や恋愛に関しても突き詰めれば人間関係だ。良好な人間関係を築くことは、明るい未来を築いていくことにつながる。
■人間関係に疲れるのは不器用だから?
「不器用だから人間関係に疲れる」と思っている人は、もしかして精神疾患などの疑いがあるのかもしれない。
具体的な病名としては、
・うつ病(精神的ストレスや身体的ストレスが重なり脳の機能障害が起きている状態)
・強迫性障害(意志に反して頭に浮かぶことが払いのけられず何度も同じ行動をしてしまう)
・アスペルガー障害(発達障害の一つ)
・自閉症(コミュニケーションの質的な障害)
・ADHD(発達障害の概念のひとつ)
先天的な気質、生まれ持った性質である、
・HSP(非常に感受性が強く敏感な気質もった人)
などがある。
各々、ここで簡単に書いてはいけないほど人間が持つ複雑で敏感な心の障害だ。
自分のせいにする前に、「どうもおかしい…」と感じたら早めに専門医にご相談されることをお勧めする。治療が遅くなると症状が悪化してしまうことにもなりかねない。
精神疾患とまではいかないが、どうも自分の性格上の問題で上手く人間関係が築けないと感じている人は多いはずだ。
しかし、自分が不器用であることだけで人間関係がうまくいかないと決めつけないでほしい。
そもそも不器用という言葉自体が極めて曖昧な言葉だ。
■不器用とは?
不器用とは「物事の処理の仕方が下手なこと。要領が悪いこと」。
ここで言う「処理」と「要領」という2つの言葉は、経験と学びでクリアしていけるもだと思う。
つまり、自分の意志で改善できる余地はあるということだ。良好な人間関係を築いていくためには、「不器用」はできない理由としては絶対的なものではないはずだ。
・経験
・学び
この2つの数値を上げていければ、人間関係が改善できる可能性は大きくなる。
■不器用で人間関係に疲れる人の改善法
ならば、人間関係を改善するために、
• 何をどう経験すればいいのか?
• 何をどう学べばいいのか?
この2つを重点的に意識しながら他人と接していく必要がある。
● 何をどう経験すればいいのか?
生まれ育ってきた環境は自分を構築する上で大きく影響している。親、地域、時代、この3つは避けることのできない自分を創った要因となるが、後天的に自分を創る環境というものもある。
性格を変えるのは非常に難しいことだが、自分を成長させることはそこまで難しいことではないはずだ。
成長するためには、人と接することがどうしても必要となる。人と触れ合えば大きく傷つくこともある。その逆に大きな喜びを感じることもあるだろう。
傷つくことの方が多いのかもしれないが、喜びよりも傷つくことの方が他人に優しい人間になれるチャンスがあると思う。
傷つくことを優しさに変えていくことは出来る。
● 何をどう学べばいいのか?
大きく傷つくことを経験すると、「自分がされていやだった事は他人にはしない」という学びが生まれる。それは恐らく自分が一つ優しくなれたということだろう。
人が喜ぶことをするのはなかなか難しいことだが、人が嫌がることをしないというのはそこまで難しいことではないはずだ。
人が嫌がることとは、
・求めていないこと
・意に反すること
・不快なこと
など。
大切なことは、その気持ちに気づこうとすること、人を「察する」ということ。「察する」とは相手がして欲しい事を感じ取ることだ。
人間関係に疲れると言う人は、「不器用」という言葉で片付けているのかもしれない。楽な方に逃げている?のかも。
つまり、「不器用」と言うよりも「無頓着」。
人が嫌がることが分かると、喜ぶことが見えてくる。「嫌悪」と「喜び」は表裏一体だ。
それは、決して他人に対して無理に自分を合わせるということではなく、その場で求められていることをいち早く感じ取る力。それが、「察する力」だ。察する力は、喜びを与える力にもなり得る。
察する人は、人間関係をより深いものにするだろう。
■まとめ
人間関係で疲れる不器用な人は、「処理の仕方が下手な人」、「要領が悪い人」であるだけなので、改善できる余地はある。
喜ぶことよりも傷つくことの方が学びは大きい。傷つくことで人は優しくなれる。
「人が嫌がることはしないでおこう」ということは、一つ優しくなれたということだ。その反対に「人が喜ぶこと」も観えてくる。
「人と合わせましょう」ということではなく、気づこうとする気持ち、人を「察する」ということ。大事なことは、それを感じる力を養うこと。