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1・我が家のある出来事から人生一遍 1)我が家の話

私の実家は4人家族。
個人事業主の母と4歳離れた妹がいます。
父は私が27歳の頃、57歳で他界。
それは、私がワーキングホリデーで渡豪中の出来事でした。
渡豪中に何度か父と国際電話で話をしていたので、、、急な別れと
なり驚きを隠せませんでした。
2024年現在は、現役で事業をしている母と一緒に仕事をしています。
その母は37年個人事業主として、現在も代表を勤めています。
起業する1年前まで、精密機器会社の経理をしていました。当時その会社の吸収合併のタイミングで退職。事業をスタートするタイミングはこの後お話したいと思います。父と母との出会いは、精密機器会社の職場で出会い、父26歳、母24歳で結婚しました。母は強引に兄に誘われて父と同じ職場になった様ですが、そうした事情も振り返ってみるとご縁でしかありません。

結婚当初は、東京にある吉祥寺駅近の安いアパート生活からスタート。実は息子が生まれた頃には、まだその建物はありました❗️さすがにあれから13年経ち築50年以上の建物なので、今はないかもしれません。その場所は、私が生まれて3歳の頃まで住んでいた場所でした。
そんな幼い頃の記憶(しかも2歳!)で、いくつか残っていることがあります。
例えば、そのひとつが、父と母がケンカした時のこと。母は幼い私を抱っこして玄関の外に立って「寒いねー」と時間を潰していたこと( ;  ; )しかもその時に、母のロングスカートのウエストから足を入れて寒さを凌いだ記憶もあります(T . T)
また、別のある日、母が少しの時間近隣に出かけて行くため、3歳の私は自宅で1人お煎餅を食べながらお留守番したとか、、、(今では幼子を置いての外出は考えられませんよね(^^;; その留守番は、テレビを見ていたら母が帰ってきた!というところまで覚えています。
どれぐらいの時間だったかは、もちろん記憶にありませんが、1人で勝手に外にも出ずお留守番できたんだなぁ。。。と昔の自分に感心します(*^o^*)
「偉かったね」って褒められたことも懐かしい。

それから4歳になる年に妹が生まれたため、手狭だったアパートからマンションに引越し。勤めていた精密機器会社の支店がマンション地下に同じタイミングで設けられました。それも父の叔父にあたる人が社長を勤めていたこともあり、父が支店長として配属されたのでした。
そのマンションには20年いたことになります。

13歳の頃には、父と母が離婚。原因は父の浮気。ある日外泊していた父を母は決断して、家の鍵を変えて締め出しました。鍵が開かないドアノブを父が外からガンガン音を立てて開けようとしたり、インターホンの音が鳴りっぱなしの状況は、今でも鮮明に覚えています。それはそれはものすごい音でした。

その日は、世の中ではクリスマス🎄。一家団欒で過ごすはずの日が、、、電気は消して音を立てず、耳をふさいで父が諦らめてその場を立ち去るのを待ちました。待つこと、1時間くらいはあったように感じますが定かではありません(~_~;)

そんな決断をした母、実は父に強く出れない関係をずーっと子どもながらに見てきました。言いたいことが言えないなんて、想像できない程のストレスだったでしょう。
そんなことから普段の生活から気持ちに余裕がなくイライラしていました。

私が言いたいことを言える性格になったのも、母が我慢の連続だったことからの、反面教師でした。

この時の決断の裏には、独身の叔母が常に話を聴き支えてくれたことから母はやっと決断したのでした。あの日の怖くて寂しい音、今でも忘れられません(T . T)

あのタイミングがなかったらモヤモヤとした日々どころか、母の心が壊れてしまい家族が崩壊していたかもしれません。

しかしながら、私は思春期だったこともあり、寂しい気持ちは引きずらず、父が居なくて困ったことは正直ありませんでした。それは、父の行動に嫌悪感をいだいていたこともあったし、母の存在の方が大切だったこともありました。だから父が居ないことで女3人で各自部屋を持てることが何より嬉しかったことを覚えています。

話しは戻りますが('◇')ゞ

そんなこんなで、母は離婚を決意する前から、早朝、日中、夕方で家事代行サービスの仕事をパートでいくつか掛け持ち。自分で起業をしていくための準備をしていたのでした。そして、半年たった頃にこれだったら自分でできると決意したといいます。

あの頃の母は、「全て半年で辞める」と決めた上で動いていたといいます。2人の子どもを育てるためのこの決断は、並大抵のことではなかったことが大人になり、事業を進めるにあたり身に染みるほどわかったことです!

母の強さに心から尊敬し感謝します。

つづく、、、














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