誰かとどこかで
こんな話を聞いた。
きみは登山をするんだってね。
いや、初心者だってなんだって山を好きな人間と話せるのは嬉しいもんだよ。
基本的に山を好きな人間は、そう群れたがらないし。
まあ、団体でウォーキングしてる人たちは別にしてさ。
登山を始めたら、ひとつ覚えておくと良いよ。
それはね、絶対にどんな山でも甘く見ないこと。
天候は急変するし、自然は優しいなんてことはないんだよ。
もちろん、天気の良い日に森の中にいることは心が晴れる。
確かなそうだ、それと遭難をしないということは、全く別問題なんだ。
なんでこんな話をするかっていうとね、僕が甘く見てしっぺ返しを受けたからなんだよ。
僕は大学から専門的に登山をしてて、海外の山にも足を運んでた。
当然、人気の高い山は人も多くて、遭難した人のミイラ化した遺体がそのままにされてるのを何回も見た。
高山だと降ろせないんだよ、気の毒だけど仕方ない。
僕が危ない目に遭ったのは、そんな所じゃなかった。
むしろ地元のハイカーに人気の山だった。
でもね、登っている途中に祠が沢山あって不思議に思ったんだ。
まあ、山は昔から信仰の対象だったし、頂上に神社もあったからね。
その日、僕は一人で登山したんだ、山の勘を維持するためにね。
山の頂上には予定通りつけた。
天候も特に問題無かったし、下山も予定通りだろうと思っていた。
何回も登った山だったし。
だけどね、降りる途中で一本しかないはずの道に迷ったんだ。
なぜか疲労がひどくなって、周りを見渡しても他の登山者は誰もいない。
森の木の葉が秋でもないのに降ってくるし、さっきまで汗をかいていたのに身体も冷え始めた。
焦ってしまったんだと思う。
何かに押されたように、足を踏み外して、僕は沢の方に落下してしまったんだ。
その時、わざとだ今の!あたしは見ていたんだよ!お前はわざと足を滑らしたね!って、ヒステリックに叫ぶ母親の声がなぜか聞こえたんだ。
僕は子供の頃から、母親とはうまくいっていなかったし、大人になってからは出来るだけ会わないようにしてた。
まあ、昔だからかもしれないけど、僕の母親は今で言う虐待する親だったんだ。
葬式にも登山の海外遠征を理由に行かなくって、母親がいなくなったことも悲しいとも思ってすらいなかった。
沢に転がっていた、その時思い出したんだ。
子供の頃、両親に連れられて山に登ったときのことだ。
足を滑らせた僕を冷たく見下ろして、同じことを母親が蔑むように僕に言ったんだ。
弟は可愛がられてたから、母親は弟の手を握って憎しみのこもった目で僕を見ていた。
あの時の悲しさや恥ずかしさや、地べたに倒れてる小学生の子供を、母親が助けてもくれないことの残酷さはきっと辛すぎたから、僕は記憶を封印してたんだね。
気がついたらあたりは暗くなっていて、リュックサックはすこし離れたところに落ちていた。
装備にいつも入れていたライトは無くなっていた。
このままじっとしていようと思った。
暗くなってウロウロすると体力を消耗するし、登山計画書はちゃんと出してあったから。
リュックサックに残っていたウィンドブレーカーと登山用のセーターを出して着込んだ。
だけどね、とにかく寒くて寒くて仕方がなかった。
ふと気がつくと地元の人なのか、前を行く灯が見えた。
ここら辺はあゆが取れるから地元の人には人気がある。
その人は初老の男性のように見えた。
僕をいつも可愛がってくれていたじいちゃんに、背中の感じが似ていた。
じいちゃんがうちに来ると、母親はいい母親を演じるから僕はじいちゃんが来るのをいつも待っていたことも思い出した。
なんとなく身体も軽くなったし、ついてこれるようなゆっくりした歩き方でその人は前を歩いている。
暗い中、いきなり声をかけちゃ驚くと思って僕は黙ってついていった。
気がつくと山の登口のバス停まで来ていた。
地元の人の使う小さな駐車場もあったんだけど、車は止まっていなかった。
歩いていた男の人は、先に帰ったのだろうと自分で納得して、最終のバスに乗って帰った。
家に着くと、家族が集まって大騒ぎになっていた。
警察に捜索願いを出そうとしていたと、妻が泣きながら話してくれた。
その日のうちに帰ったと思っていたんだけど、僕は山の中で2日すごしていたことがわかった。
山岳部の先輩が話してくれたことがある。
遭難してもうダメだと思った時、知っている人やあかり、人によっては天使が現れて道案内してくれるなんて言う話が時々あるってこと。
あれはきっと僕のじいちゃんだと今でも思ってるよ。
だったら、沢に突き落としたのは僕の母親かもしれないな、何せ葬式にも出なかったし。
だけどね、やっぱり僕はそれからも母親の墓参りはできないんだ。
親に殺される子どもはいるんだよね。
しばらくたって、妻にこの話を何気なくした。
妻は、僕の代わりに会ったこともない母親の墓参りをしてくれたと言った。
墓に、絡まって枯れていたツタを掃除してきたよって言ってた。
それ以来、どんな山に行っても母親のヒステリックな怒鳴り声を聞いたことはない。
まあ、あの世でも会いたくないけどね。
気をつけてね、山は不思議なところだからね。
そう言って日に焼けた登山者は笑って、山を降りて行った。