出現! 反常識のデジタル規制改革③
この連載記事は、デジタル臨調が6月に公表した「デジタル原則に照らした規制の一括見直しプラン」を多くの皆さんに知ってもらえるよう、見直しプランの神髄となっている「デジタル思考・イノベーション指向」について、解説するものです。
規制をデジタル化するためには、民間にいるたくさんの皆さんの力が不可欠です。そのためには、見直しプランが面白いアプローチを採用していて、皆さんのビジネスにつながるものであることを知ってもらわないといけません。
この記事をきっかけに、少しでも多くの皆さんに、デジタル庁が挑戦する壮大な「デジタル規制改革」に興味を持っていただき、このプロジェクトに参加してもらいたいと思っています。
第1回目の記事はこちらから読むことができます。
第2回目の記事はこちらから読むことができます。
デジタル規制改革とEBPM
フェーズ・アプローチによるデジタル規制改革は、現状の仕組みをデジタルでもできるようにするフェ-ズ2から、デジタルを原則としてエンド・トゥ・エンドでデジタルで完結するフェーズ3に発展することを指向しています。
これは、フィジカル空間の振る舞いをデータ化してサイバー空間で分析し、フィジカル空間にフィードバックをもたらすこと、そしてこのサイクルを可能な限り人手を介さずに実現することを狙ったものです。
デジタル戦略は、データ戦略をおおもととしており、データ戦略は、日本が掲げるサイバー・フィジカル一体化社会であるSociety5.0を、データの側面から整理したものです。
デジタル規制改革がフェーズ3に至ることを目標とするのは、単に規制の執行を自動化して公務員の業務量を削減し、人手を掛けなければならない仕事に注力できるようにするためだけではありません。
モニタリングから解析、インシデントに対するレスポンスに至るまでをエンド・トゥ・エンドでデジタルで完結できるようになれば、その過程をすべてデータとして分析の対象とすることができます。これは規制のデザインの観点から言えば、データ分析の結果をもとに、より効率的かつ適切な規制の在り方を考案することができることを意味します。
このように見直しプランは、デジタル規制改革をエビデンスに基づく政策立案(Evidence-Based Policy Making; EBPM)につながる重要な経路として想定しています。
EBPM実現のために不可欠な「社会の失敗革命」
データをもとに客観的な政策立案をしていこうという提案そのものは、最近ではそれほど珍しいものではありません。むしろ、トピックごとに縦に立てられた従来型の規制改革提案では、テクノロジーとデータを用いて政策立案をしていくという絵を描くのがお決まりになっているという面もあります。
しかし、テクノロジーとデータさえあれば、EBPMは実現するものなのでしょうか。
見直しプランは、この問いに対して「NO」であるとの見解を突き付けています。
見直しプランが考える、テクノロジーとデータに加えて、EBPMを実現するために必要な要素とはなんでしょうか。
見直しプランは、それは「行政は間違いを犯してはならない」「現行の制度や政策は間違っていない」というドグマ、つまり無謬性神話であると喝破します。無謬性神話が残る限り、デジタル規制改革やEBPMをベースとしたアジャイル型政策形成という構想は失敗すると指摘しているのです。
見直しプランは、規制のデジタル化システムをデザインしたり、これまでにない相転移のアプローチや共創アプローチを採用したりしている点で、間違いなくこれまでにない、イノベーティブな改革提案だと思います。けれども、この見直しプランが何よりすごいと思うのは、デジタル原則に基づく規制改革の成否のカギを握るのは、こうした技術的なデザイン論や、経済学・経営学で語られるイノベーションのアプローチを行政に展開する技術論ではなく、「行政も間違える」ということを行政自身、そして日本社会全体が共通認識として持つことができることだ、と断言している点です。
「デジタル規制改革の一丁目一番地は、失敗に対する社会全体の価値観の転換だ」と言い切っている点が、この見直しプランのハイライトといえるでしょう。
デジタル社会を勝ち抜く必要条件としての“失敗革命”
未曽有のコロナ禍や日本の安全保障を取り巻く状況の激変に典型的に見えるように、環境の変化が激しく、社会課題の複雑さの度合いが増していく状況下では、将来を見通すことは容易ではありません。
デジタル化の急速な進展もまた、こうした傾向に拍車をかける技術環境の重要な変化と位置付けることができます。
このような状況にあっても、行政には、様々な社会課題にタイムリーに対応していくことが求められています。その際に行政に対して、常に「正解」を選び取らなければならない、という命題を与えるのは、行政に不可能を強いるものだと思います。そもそも神様でなければ誰にも分らないことであるのに、神様ではない行政機関に対して「間違ってはいけない」というミッションを与えることが不合理なのは明らかだろうと思います。
発生した問題の責任を誰かに押し付け、スケープゴートを見つけて安心したいという社会の安易な要請に呑まれて、非難に対して反論の手段を持たない行政機関に対して「間違ってはならない」などという不可能な要求をすれば、行政はチャレンジを怠り、前例を踏襲することによって、組織の自己防御に向かうことは明らかです。また、失敗の指摘を怖れて組織としてのオープンさを失い、隠蔽体質に陥り、内輪で物事を決める方向に向かうだろうことも容易く想定できます。
こうしたものはすべて、デジタル規制改革のために見直しプランが求める行政組織の行動規範と正反対の行動様式です。
繰り返しますが、変化の早いデジタル環境のなか、そもそも将来の確たる見通しが立たないのですから、どのような政策が正解であるかを予め知ることは不可能です。このような状況下で、政策ができる最大限のことは、不完全な情報のもとにまず政策を立案して執行し、どれが上手くいかないのかを探ること、上手くいかなかった政策からの学びをもとに次の政策を立案して執行すること、これを繰り返すことのみです。この繰り返しの先にしか、上手くいく政策を見出すことはできないのです。
ここで皆さんに理解していただきたいのは「成功のためには失敗はやむを得ない」のではなく「成功のためには失敗が不可欠である」ということです。失敗が、成功のために仕方がなく発生する悪い事象だと考えてはいけません。成功は失敗の先にしか存在しないということを肚の底から理解する必要があります。
日本のエリートには、失敗らしい失敗をしたことがない人が多いかもしれず、成功が失敗の先にしかないということはにわかに同意できないかもしれません。しかし、残念なことに、そうした人は、本来その人がたどり着くことができたはずの成功にたどり着いていないというのが正しい評価です。本来するべき挑戦をしっかりしていれば、100にまで到達するはずの人が、失敗を避けたために60にまでしか到達していないということです。
企業に置き換えれば、持っている経営資源を正しく使ってするべき挑戦をすれば、もっと高収益の企業になったはずだったのに、リスクばかりを見て失敗を怖れたために、他の企業に比べて収益性で大きく見劣りする結果となっているということです。
いま日本では、こうした失敗に対する誤った思考様式が個人から企業、行政に至るまで、抜きがたく浸透してしまっています。日本社会が世界から取り残され、この先下り坂一辺倒になっていく絵しか描けない理由の根源は、この点にあると思います。
デジタル規制改革と「行政の無謬性」神話の克服
これをよく理解したうえで、デジタル規制改革について考えてみましょう。失敗しなければ成功にたどり着けないとすれば、行政に無謬性を求める価値観が、デジタル規制改革にとって致命的な欠陥であることは明らかといえます。
「上手くいかない方法の先に上手くいく方法の開発がある」という考え方は、科学的思考の基本です。エンジニアの皆さんには当たり前の考え方でしょう。
EBPMというのは政策立案を科学的にあアプローチする手法です。データというエビデンスに基づき科学的に政策形成を行うことを指向するのであれば、「失敗」に対する価値観を根本的に変える必要があります。
失敗は価値ある社会全体の知的財産であり、それ自体非難の対象ではありません。行政組織のみならず、行政組織を評価する社会全体が、「失敗」という事象に対して認知革命を成し遂げることができて初めて、日本のデジタル構造改革は、その挑戦にふさわしい成果を得ることができるだと思います。