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聖ヨセフの第7の日曜日

さて、順番に見てきた聖ヨセフの7つの
日曜日も最後の時となりました。

以前にも神殿で学者たちと討論する12歳の
イエスについて投稿しましたが、この
エピソードがこの聖ヨセフの第7の日曜日
とりあげられています。

「そして道連れの中に(イエス)がいることと
思いこんで、一日路を行ってしまい、それから、
親族や知人の中を捜しはじめたが、見つからないので、捜しまわりながらエルサレムへ引き返した。」
(ルカによる福音書第2章44〜45節)

これはまさに、子どもが迷子になってしまった
親の心境ですね。少し大きくなって自我が
芽生えてきた子どもはよく、好き勝手なところに行って、親を心配させます。

「そして3日の後に、イエスが宮の中で教師たちの真ん中にすわって、彼らの話をきいたり質問したりしておられるのを見つけた。」
(ルカによる福音書第2章46節)

ここで、聖ヨセフは大人たちとしっかり
受け答えをしているイエスを見つけ、それまでの苦しみが喜びに変わりました。しかし、この後で
イエスが自分が(父である)神の家にいるのは
当然であると、母マリアに言ったのはさすがというか平民とは違うところだと思います。

さて、ここまで見てきてようやくヨセフとマリアの結婚からイエスの誕生、成長の流れを理解することができました。当たり前のことですが、
これらがサグラダ・ファミリア教会の生誕の
ファサードの壁面に彫刻として表され、飾られて
いるわけです。装飾としての配置も考えられており、一番上の真ん中に生命の象徴であるイトスギが飾られ、そのしたに聖母の戴冠が飾られています。そして、さらに下はこれまで見てきたような受胎告知や東方の三賢人などのいろいろなエピソードがシンメトリックになるように配置されているわけです。これらを順番に見ていくと、一連のお話が理解出来るようになっています。しかし、
建物の壁面の装飾ですから、すこし離れたところから見ないといけませんね。以前にも投稿しましたが、それぞれのお話を思い浮かべながら、ガウディは一つ一つの像を刻んでいったのでしょうか。本当に気の遠くなるような仕事でした。強く信じる信仰心がないととてもではないですね。





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