スピーチではもう一人の「自分」を創ろう
私は特段スピーチがうまいわけではありませんが、英語コミュニケーション担当(専門はコミュニケーション学)として、スピーチ・コミュニケーションという英語専門の授業を担当しています。自分なりに理論と実践を融合させようと努めています。昨日の授業後のコメントで学生に伝えた文章に少し手を加えたものを、ここに載せておきます。
内容も大事だけど、言葉の配り方も大事なのよ
スピーチと言えば普通、トピックについて深く考え抜き、練りに練ってロジックや表現を精錬し、徹底的に練習し、それを人様に伝える、というイメージですね。これらのすべてのステップはどれも大切なのですが、大学での15回の授業で全部を練習し、しかも極めることはできません。ならば、どのステップに焦点を当て、練習していくかを取捨選択しなくてはなりません。
そこで私が選んだのは、内容や表現ではなく、実際にデリバリ(delivery)することです。言い換えれば、言語に関するバーバルな部分ではなく、ノンバーバル(nonverbal communication)、準言語(paralanguage)にリソースを注ぐことであり、英語の脳内活動ではなく、英語的な身体を創り上げることということができます。
内容は大事だとわかりつつも、どちらかというと苦手なのは準備したものの配り方だという人は多いです。人前だと緊張するとか。それはそうですよね。これまで自分の中にこもってもんもんと作業していたものを、人目にさらされつつお披露目するわけですから。極端な話、中身やロジックは一人で机上でも勉強できます。しかし、デリバリについては実際に相手と向き合い、実践しながらでしか、伸ばすことができません。そして、その伸ばし方にはコツが必要です。
自分だけが自分のスピーチを見れない
デリバリを練習するためのコツとは何でしょうか。それを説明するにあたり、簡単な図を書いてみました。
皆さんは話す側になったとき、スピーカーとして聴衆の方々に語り掛けますね。目の前で展開する聴衆とのコミュニケーションに没入しているベタな自分のことを、「自分①」と名付けておきましょう。
ふつう私たちは自分の目に物理的に映る状況を「現実」として生きています。自分①とって、その「現実」には自分自身は視野に入っていません。ですよね。
例えば、10人の前でスピーチしたとしましょう。目の前にいるその10人はあなたのスピーチを聞くことができます。しかし、その場にいる11人目のあなた自身だけが唯一、自分のスピーチを見ることができません。スピーチのデリバリを伸ばそうと思ったら、まずは自分だけが目撃していない自分自身のスピーチを観察するもう一人の自分が必要となるわけです。
俯瞰するもう一人の「自分」を作る
ということで、先に述べた「伸ばすコツ」とは、スピーチ状況に埋没した「自分①」の外に出て、自分が他者からどう見られているか、自分はどうコミュニケートしているかを俯瞰(鳥瞰)する「自分②」を自分の中に創り出すことです。
自分①のみだと、自分のスピーチでは無意識が駄々洩れしてしまい、緊張であたふたしたり、どうスピーチしていたか覚えていない、ということになります。スピーチの練習するには、それを観察する自分②を作り出す必要があるわけです。
自分②は意識しないと陰に隠れてしまう自分です。アニメであるでしょう。思い出したときに頭上に出てくる天使や悪魔のような存在、あんな感じです。デリバリの練習には、意識的に自分やスピーチ状況を俯瞰する必要がある、その練習の場が授業であり、それを(日本語も含め)日常でも実践してみるのです(先生としてふるまう際も同じ)。
*補足 この授業では前で発表する英語スピーチを録画し、各学生に動画ファイルでお渡しして、振り返りレポートを書いてもらっています。事後的に自分②の視点から自分①のスピーチを観察するためです。そこで得られた気づきや知見を、次の授業でのスピーチやコミュニケーション活動、あるいは日常生活にいかし、自分②を創り出す練習を積んでほしいと思っています。
「英語でなくとも」ではなく「英語だからこそ」
スピーチの練習なら英語でなくとも日本語でもしますね。英語の勉強なら英語自体に焦点を当てて、書く・話すを練習した方がよいので?という意見があります。確かに。いずれにせよ英語は使うので、むしろスピーチを目的としつつ、英語を手段として練習することの方が本質的と思います。
踏み込んで言うと、スピーチの練習は、日本語でよりも英語を挟む方がそういう練習がしやすいとさえも思っています。
日本語でスピーチをやっていると仮定してみてください(今日のトピックは去年起きた一大イベント)。みなさんならどういう風に話しますか。おそらく多くの方が、「私の昨年の一大イベントは~です。」という「ですます調」で話すのではないですか。すると丁寧だけど、聞いている人との距離が空くんです。すると一方向のコミュになりやすい。英語だと「ですます」、「だである」の区別がないので(丁寧な言い回しがないといっているわけではない)、そういう意味では英語を挟む方が双方向のコミュニケーションの関係を作りやすいんです。
*補足 時吉秀弥『英語脳スイッチ!―見方が変わる・わかる英文法26講』(2023、ちくま新書)の言葉を借りれば、「日本語脳=自分がカメラになり、そこに映った世界を言葉にする」vs「英語脳=まるで幽体離脱するように、自分が外から自分を眺める」(p.43)における後者の力を利用する、ということができるでしょう。つまり、前者=自分①から見たスピーチの状況を後者=自分②から見下ろすという構図です。これらは比喩的であるため単純な二項対立で理解することはできませんが、イメージはしやすくなるのではないでしょうか。
スピーチは発表ではなくコミュニケーション
最初に述べたように常識的には、スピーチは孤独な作業の後、聴衆の前でお披露目するというイメージです。つまり、話し手から聴き手へのメッセージの移動をスピーチと考えがちです。しかし、それだと話し手の私的な独り舞台になりがちであり、聴き手は受動的なメッセージの受け手でしかありません。
私のスピーチ・コミュニケーションの授業の大前提は、スピーチとはコミュニケーションである、ということです。
そこでは話し手は、聴衆に情報を提供するだけではなく、どうすればそれがどう届くか、届いた後どう思ったか、それに対して自分はどう思うかという連鎖があってこそ、自分の考えを他者に聞いてもらうことに公的な意義があります。一方、聴衆としても、単にはいはいと聞くというよりも、話し手はそう考えるが自分はそれにどう考えるか、納得するならなぜそうなのか、そう思わないなら自分の意見はどうなのか、それをぶつけてみて帰ってきた答えにどう思うのか、というように、スピーチを聞く過程で自身の価値観が刷新されていくものです。
先に「双方向のコミュニケーションの関係」と書きましたが、話し手と聴き手が双方向の関係にあり、互いに高め合う、それがスピーチとしてのコミュニケーション。そういうスピーチ観・コミュニケーション観でスピーチに取り組み、自分②を創り出し、自分②の協力を経て自分①の技術を磨き、コミュニケーションとしてのスピーチを練習する。そのサイクル。英語はその媒介ですが、受講している学生のみんなにはこうして使う中で磨いてほしいし、まだまだ足りない!と思ったら、それをきっかけに練習してみてください👍
追記 後日「『身近なコミュニケーション』としてのスピーチ」という補足の記事を書きました。合わせてご覧ください。お読みいただきありがとうございました。