友達の死から学んだこと
今から5年前の10月1日。
僕は高校を卒業し、大阪の専門学校に通っていました。その日は月曜日でいつも通り「学校行くのだるいなぁ」なんて思いながら、いつも通り少し遅刻気味に通っていた専門学校に向かったのです。教室に入るとクラスメイトがいて、何人かは僕と同じで遅刻して学校に来る、そんないつも通りの日常だった。
遅刻する友達のなかに、幸翼(こーちゃん)という友達がいて、こーちゃんは三重県の名張市という所から電車に1時間半も乗り、天王寺の学校まで通っていた。
「こーちゃん来てへんなあ、、」
「また寝てんねやろ?」
「LINE入れても既読つかへん」
教室ではこんな会話が繰り広げられていた。
これもいつも通りの会話だった。
結局こーちゃんはこの日は学校に来ず、LINEに既読がつくこともなかった。
誰もこの時、幸翼が亡くなっているなんて知る由もなかった。
僕らが知ったのは次の日のこと。
この日もこーちゃんは学校に来なかった。
もちろんLINEの既読もつかない。
そんななか、放課後僕らのクラスだけ教室に残された。その時はまだみんないつも通り。
先生が神妙な面持ちで話し始めた。
「実は…… 。」
その話を聞いた時、「何を言ってるのか意味が全く分からなかった」
「何の冗談???」って思ってる自分とは別に自然と涙が溢れてきた。みんなも泣いていた。
こーちゃんは前日の月曜日、なかなか起きてこないことを不思議に思ったお母さんが部屋へ行くともう既に冷たくなっていたらしい。
救急隊員の方の必死の心臓マッサージも虚しく、亡くなっていた。
まだ19歳。死因は急性心筋梗塞だった。
こーちゃんが亡くなった数時間前、僕はこーちゃんとLINEでやり取りしていた。
最後のLINEは
僕:「また明日学校で!」
幸:「明日は遅刻しやんと行くわ!」
これが最後だった。。。
お父さんからの一言
みんなで参加したお葬式、棺に入った幸翼をみると本当に幸翼が亡くなったという現実を突きつけられ、涙が止まらなかった。息が出来なくなるくらい泣いた。
幸翼の顔はとても冷たかった。
感じたことの無い冷たさ。
余計に涙が止まらなくなった。
こうしてnoteを書いてる今も思い出すと自然と涙が溢れてきて、心臓が張り裂けそうになる。
喪主である幸翼のお父さんからの最後の挨拶。
僕はお父さんが声を振り絞るように話された最後の一言を今でも鮮明に覚えている。
『 幸翼の分まで一生懸命生きてください』
この言葉が僕の頭の中には常に残っている。
友達の死を乗り越えて
幸翼の死を経験した僕は、自然と考え方が変わって行った。
昨日までLINEしていた友達と、
2日前まで毎日のように会っていた友達と
「サヨナラ」の一言
も言えずにお別れすることがあるだなと、、
何も考えずに、生きている事を当たり前のように思っていた自分を悔やむようになった。
「死」は生きていると全員が避けられないもの。
だから、友達の死を経験した自分は昔の自分と違って、「挨拶」や「感謝」をよくするようになったし、生きていること(生かされていること)がとても幸せだと思うになった。自分も周りの人(例えば家族とか)もいつ亡くなるかなんてお互い分からないから親孝行もめちゃくちゃ考えるようになった。
そして、何より自分自身、今ある人生を一生懸命生きるようになった。遊びも仕事も全力でするようになった。
この記事を読んでくれているあなたも、頭の片隅に「死」を少しだけ置いて、後悔しない人生を過ごしてもらえると嬉しいかな、、
今貴方がしていること、仮に明日自分が死ぬと分かっていても同じことをしますか?
この機会に一度考えてみてください。
僕は仕事柄、これまでたくさんの人の亡くなる場面に遭遇してきましたが、その度によく家族の方が「ありがとう」と言われる場面を目にします。
人は亡くなってから伝えても遅いのです。
後悔しないためにも普段から、生きているうちに感謝を伝えてあげて欲しい、そう願っています。
最後に、僕にはどうしても叶えたい夢があります。それは消防救助大会で全国大会に出ることです。
幸翼は亡くなる前、地元の消防の1次試験を突破していました。僕も2次試験を突破し、クラスで頭の悪い僕達が唯一採用試験に残っていたのです。
元々運動神経抜群の幸翼は生きていたらそのまま消防士になっていたんだろうなあと…
そして、救助大会に出て全国まで行っていたんだろうなと思っています。
僕が幸翼の分まで頑張って、いつの日か全国大会出場の報告をすることが僕の夢です。
いつの日か会えるその日まで、、
何がなんでも生きて証明してみせます!
※長文読んで頂きありがとうございました。
途中感情がめちゃくちゃになりましたが、何か1つでも、伝わっていれば幸いです🙇♂️