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[書評]五十嵐大『しくじり家族』のしくじりアイロニーがいま大切。

「子を愛さぬ親はいない」という言葉を否定するようになって何年が経つだろう。僕は「子を愛さぬ親がいる」ことを知っている。もちろん実父・実母のことを指すのではないけれど、これまで幾百人の相談に乗ってきて――恋の悩み、結婚の悩み、病気の悩み、うつ・精神疾患、障害、大手術、それから就職、失業、ドラッグ中毒、年収3億だけど寂しさMAXな人、その筋から"スカウト"された関東で知られる有名ヤンキー、LGBTQのつらさ、貧しさのうめき、学者の苦悩、そして家庭内暴力・不和――彼・彼女らの声や姿を見聞きして、僕は確信した。「子を愛さぬ親はいる」。それに、もし親に愛情があったとしても、「愛情表現が間違っている」ことは「現に」ある。それを子どもが無理やり「これも愛情なんだよね……」と思い込もうとする必然性はどこにある? どこにもない。

「子を愛さぬ親はいる」と知って心が軽くなる

今はむしろ、そういった「子を愛さない親だって、現にいるんだよ」と言うことで、心が軽くなる子ども(といっても、10~30代くらい)がたくさんいる。親の愛という美談は"ふつう"なのだろうか。僕にはよくわからない。ただ、「愛さない親」がいると知って、気持ちが解放される子の多くは、上記のような悩みを抱えていて、しかもそれを「外」に言い出せないでいる。特にDVやネグレクトはもちろん、家庭内の不和や不仲は、なんとなく"言ってはならないこと"とされている。なぜだろうか。ひとつは、やはり「子を愛さぬ親はいない」的な倫理のもとに「家族の醜態は世間の恥」「親の愛を信じ切れない自分はおかしいのでは」という感覚が育まれ、家族「外」に打ち明けることをできなくさせられているからだ。

一昨年、自死した僕の友人は親から愛されたか

一昨年、僕の友人が自死した。重度の精神疾患を患っての自殺だった。彼は自宅の一室で療養していた。彼の両親はそれを世に知られまいと、実質的に彼を世間の目から隠した。隔離といっていい。

十年以上の長きにわたって「監禁」された彼は、日々、親の「宗教」に怒りをぶつけた。その両親は、実はとある宗教の幹部だった。宗教には「功徳」というか、信仰ゆえのメリットがあるとされるが、幹部の息子が病気になってしまったということが一般信者に知られると、「あれ、この宗教って救われるものじゃないの?」「あの幹部って信仰心がおかしいのかな」という疑念をわかせてしまう。これも一種の恥のようなもので、だから両親はひたすら息子を隔離したのだ。

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僕は十年ほど彼の相談に乗った。僕はスマホで電話する。彼は、ガラケーだった。もはやバッテリーは寿命で、常に充電器につないでいたという。その環境だから、「こういう面白いサイトがあるよ」といっても、データが重すぎて見られないことがしばしばあった。彼にとっては、それでもガラケーの、ドット絵のようなぎこちない画像と文章が世界のすべてだった。その状態が長く、長く続き、彼は疲れてしまったのだと思う。自ら命を絶った。

僕は、思う。この両親に、愛はあるのだろうか。仮に愛があるのだとしよう(実際に、ある可能性もある)。でも、その愛は、子どもにとってふさわしくないか、表現が間違っている。そういう環境にいる子どもには、親に歯向かう権利を行使していい事情が十分にある。けれど、子どもに「力」がないことが多い。だからせめて僕は、「子を愛さない親だって、現にいるんだよ」という、いわゆる「通念」を壊すことで、彼らの気持ちが軽くなることを願う。

しくじり? 暴力、そして障害者を両親に持つこと

そんなことを思い返しながら、『しくじり家族』を読んだ。著者の五十嵐さんは、東北の小さな港町で、元ヤクザの暴れん坊の祖父、ある宗教に熱心すぎる信仰を持つ祖母、そして両親ともが聴覚障害者という家庭で育った。彼のエッセイがつむぐ物語は、僕が上に記したような話とはまた違うけれど、ただ、僕自身にはとても居心地がよく、共感もできて、やさしい気持ちになれるものだった。内容が凄惨なのに、だ。五十嵐さんにとっての親とのつながり、親子の心にほっこりとさせられる。特にこのコロナ禍で、家庭不和やDVが鮮明化した、その当の家庭にいる子たち、さらにはDV・ネグレクトなどを「されている側」にとって、本書は福音ともなるだろう(手元に届いてほしい)。

五十嵐さんの家庭は、凄まじい。彼が幼いころから祖父は暴力をふるった。刃物を畳に突き刺さし、ガッと脅してくる祖父と対面したこともあるという。喧嘩もさんざん見た。祖母は生まれてすぐの彼を教団に入れてしまった。そして、ことあるごとに共感しきれない"教え"を提示され、彼は戸惑ったし、悩まされた。このあたりのことは本書では詳述されていないが、以下のリンクで彼が詳細をつづっているので、ぜひ読んでみてほしい。

両親の耳が聞こえないのも、また大変である。日常の意思疎通が難しいのは当然だが、それゆえに、ただでさえ人間関係が"濃い"地方の港町で、孤立してしまうこともあるかもしれない。五十嵐さんは見様見真似? で覚えた手話を駆使しつつ、父母をサポートした。それに、家のことも率先して手伝い、電話が来たり家のチャイムが鳴れば、すぐに五十嵐さんが応対した。幼い頃から、彼は自立した子どもと周囲から認識された。その一方で、たとえば他の近親者は、そういった状況があるのを知っているにもかかわらず、手話も覚えようとせず、それ相応にマッチしたサポートをするわけでもなかった。だから五十嵐さんは、不満を抱いた。また、親を支えるために子どもらしいことができない場面も多々あったようだ。

「どうしていつも、ハンデを背負う母ばかりが歩み寄っていかなければならないのか。どうしてみんな、ほんの一歩でもいいからこちらに近づいてくれないのか。その不満の矛先は、やがて母に向かってしまった。――障害者の親を持って、ぼくは本当に不幸だと思う――。思春期になると、そのような文句ばかりを母にぶつけた。そのたび母は哀しそうに笑いながら、『ごめんね』と謝る。本当は、謝る必要なんてなかったのに」(同書34頁)

幼少の頃からのこういった蓄積は、ふとした瞬間のため息の色を変えると思う。ちなみに、僕も一時期、耳が全く聞こえない時期があった。ふいにそういった事態になった時の僕の感懐を過去しるしたので、最下にリンクを貼っておく(趣旨とは関係ないので、読まなくていいです)。

しくじり? 宗教、映画『星の子』に似たすれ違い

先に述べたように、五十嵐さんの祖母は、生まれてすぐ彼を教団に入れてしまった。彼だけでなく、祖母の3人の娘(彼の母含む)も入信させられた。理由は、子(=五十嵐さんの母)の聴覚障害を治癒したい一心だった。

「神様に祈れば、障害だって治る。娘さんも喋れるようになるんだよ」(57頁)

祖母は、藁にもすがる思いで宗教に傾倒していった。この文脈は、実はいま公開中の映画『星の子』(芦田愛菜さん主演)と似ている。以下は僕がnoteに書いた感想の一節だ。

「(主人公の)ちひろは生まれながらにして病弱だった。新生児の頃から謎の発疹に遭い、両親は苦悶する。そして、すがるような思いで特殊な効能があるとされる『水』(教団発売)を手にする。ちひろにそれを使うと、病はよくなっていった。以来、その功力を信じた両親は"怪しい宗教"に入会(作中表現)し、信仰に没入していく」(リンクは下方)

その結果、ちひろは、宗教と人間関係をめぐるさまざまな葛藤を抱える。しかし、それでもその"怪しい宗教"を信じるよう自らに念をこめ、同時に両親を信じ続ける。悲しくも生まれる彼女の感情のもつれ・悲哀が、本作ではゾッとするほど淡々と描かれていた。

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五十嵐さんはこう語る。

「生まれてすぐに入信させられたぼくも、大人になるまでは、神様の存在を訝しみつつもどこかで信じていた。信仰から心が完全に離れたのは、二十歳の頃だった。祖母は『神さまを信じていれば、夢だって叶うから』と繰り返しぼくに言い聞かせていた。でも、結局、夢は叶わなかった。それを機に、ぼくは信仰を捨てた。気づくのに随分時間がかかってしまった」(『しくじり家族』58頁)

まだ意思表示も何もできない時に入信させられ、気がつけば違和感のある信仰に関わり、まわりの子から「怪しい宗教をやってるらしい」と睥睨されたりすることの理不尽は、おそらく宗教熱心な親を持つ子どもには(特に親の信仰が周囲に知られている場合)わりかし、あることだろう。選択の余地もなく勝手に信者にさせられているという状態への違和や不快、苦痛は、そもそも意識がハッキリして気がつけば「生きてしまっている」という「生」のジレンマや、気がついた時には「家族の一員になってしまっている」という「既に世界に投げ込まれている」ということでしか事後的に気づけない構造と地続きにある。ハイデガーはこの事況にどう応じるかを思索した哲学者だが、彼もいうとおり、これは最終的には「死」に対しどう構えるかという問題につながっていくのかもしれない。

「しくじり」は「ふつう」ではない?

僕が本書を読んで、事ここに極まれりと思った瞬間がいくつかあった。ひとつ、あげよう。

祖父が亡くなり、家族だけの葬儀をしようという時に、祖母が「お世話になった人たち(宗教関係者含む)」に電話をかけてしまうというシーンがある。それを知った祖母の娘のひとりが「家族だけのはずでしょ!」と怒りだし、喪主を務めるようになった五十嵐さんと取っ組み合いの喧嘩になった。そこでその祖母の娘が「誰がお前を育てたと思ってるんだ!」と言い出す。両親が障害者の五十嵐さんだから、それはそれは、その祖母の娘にも手伝ってもらった機会はあるだろう。程度は主観の問題だが……。五十嵐さんの率直な感懐は、そうはいっても――。

「母と父には障害があるから、自分が代わりにぼくのことを育てたつもりなのだろう。でも、決してそんなことはない。ぼくをここまで育ててくれたのは、母と父だ」(76頁)

という言葉になっている。そして、祖父が亡くなって神妙さがただようまさにその日に、掴み合いの大喧嘩が起こり、肩をゆすり、髪の毛を掴むような事態をとって

「地獄絵図だ」(77頁)

と五十嵐さんは書いた。

これ以上、本書については引用しないでおこう。

皆さんは、このような家庭にどんな気持ちを抱くだろうか。「変わっている」と思うだろうか。それとも「かわいそう」? いや、「こういう家庭って、意外とあるよね」だろうか。

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しくじりアイロニー

本書は、「"ふつう"の家族」を意識して書かれている。だからか、本書には"ふつう"という言葉が散見されるし、それに比して五十嵐さんの家族が"ふつうではない"とも述べられている。確かに、大雑把に雑にくくれば、ふつうではない家族と言えるし、多くの人もそう感じると思う。だが一方で、「ふつうの家族ってそもそも何?」という問いも立ち上がる。五十嵐さんはおそらく、その問いも意識している。

冒頭、僕は自死した友人のことを書いた。その前には、多くの、本当に多くの友人・知人たちの相談に乗ってきた(FacebookやTwitterの前アカウントで相談室もしていた)ことも書いた。家族内にゴタゴタがあるという事態の「多さ」「多様さ」は、僕の感じるところでもある。ある意味で、事例はたくさんあるのだ。だが、そういった境遇にいる人たちにとって、「"ふつう"の家族とは違う」という「感じ」はとてもビビッドで、ある種そこに気持ちを落ち着けられたりするものである。そういう人に、仮に以下のように声をかけたらどうなるだろう?

「まあ、ふつうの家族なんてないし、みんな、どこの家族も悩んでるよね」

おそらくそれを言われた子は、自分の「"ふつう"の家族とは違う」という感じを踏みにじられたと感じるだろう。自分の家族の悩みを、急に一般化されて、均(なら)されて、どこにでもあるありふれたことのようにされて、苦しくなるだろう。この場合「ふつう」という言葉が凶器になる。五十嵐さんの本は、そこを意識してか、ふつうの家族という概念についての語りは一切せず、ただただ五十嵐さんの家庭の個別性がそこにあり、血の通ったその人だけの語りというものがある、と、またそれを重視しようと努めて書かれている。「こういう家庭内の苦しみは、どこにでもあるよ」という一般化は注意深く、しっかり避けられている。僕は、そこに五十嵐さんのやさしさを感じる。

これだけ「ふつう」と書きつつ、でもいやらしくない形で「ふつう」の暴力性を「ふつうでない家族」を通じて描く「しくじりアイロニー」とも呼べる軽妙な彼の語りは、家庭の問題が社会的にどんどん鮮明になり、肥大化さえしていく今こそ、必要なものだと僕は思う。

親孝行という縛りについて

最後に、余談的に書きたい。本書のなかに、しばしば「親孝行」「孝行」というフレーズが出てくる。五十嵐さんは、正直、祖父などに孝行したいという思いを抱けない。だが、この通念がやはり圧となって、何となく親孝行の流れに巻き込まれていく。

「親孝行しないとね」という句は、時に子どもを親のもとに縛る。

親孝行のために、自分をあきらめる人がいる。進学の選択肢や職の選択肢を狭める人もいる。仕方ない事情もあると思う。その一方で、たとえば親孝行だからと、親の宗教活動につき合ったり、本音を隠して無理やり親のいうとおりの進路を選んだりということも結構ある。学校でのイジメを隠す時にも、似た心理が働くことがあるだろう。そういう子たち、人たちは、時に「親孝行」という重い言葉にとらわれて、自分を縮減し、あるいは自分の心を殺してしまう。僕は、だから「親孝行」という言葉が好きではない。しないわけではないけれど。

僕にはいま2人の子どもがいる。

実は、僕は近年とても苦労した。死にかけた。だからこそ五十嵐さんに共感ができるのだけれど、その子ども2人は、ただ存在してくれるだけで、僕の支えになっているし、今もなっている。僕は、率直に子どもから存在の愛を受け取っている。子どもに「愛している」という意識はあるだろうか。わからない。だけど、ただただ、寝顔を見て、まつげに揺れる間接照明の美しさに涙する自分がいる。苦しい時、わが子のやわらかい手を握ると、心が落ち着く。その時に思うのが、子どもによって愛され、支えられている自分の「子への恩」である。僕は、子どもに対して親孝行云々は言わないようにしている。僕はむしろ、これだけ愛を受け取っているからこそ、生涯を、一生を「子どもへの恩返し」「子ども孝行」に使おうと思っている。

そういう考えがあってもいいのではないか。

といったことを意識しつつ、ぜひ『しくじり家族』を手にとってほしい。


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