新型コロナが僕らの社会に突きつけたものをつれづれ
Twitterにつれづれ書いたことの転載。
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「新型コロナが文明に突きつけたものは何だと思いますか?」と聞かれて思いつき的に「人間の仕事の役割分担の過剰さ」って言ったのだけど、よく考えてみるとホントそうだなって逆に自分で再確認した。さまざまな生活のインフラがある速度以上で回ることが前提になってる構造、それに依存する人、みたいな。
極端な話、僕は狩りもできなし畑もおこせない。飲み水だって水道が止まったらどうしようってなるし、衣服も突然手に入らなくなったらすぐ代替物を作れる自信はない。色々なものに依存しそれに支えられながらでないと生きられない、「生きられなさ」の過剰さ、それが「役割分担の過剰さ」
かの森田真生さんは「命に近い仕事ほどお金が動かない」と言われてたけど、排泄物処理や子育て、介護、看取り、調理、衛生環境の整え、病災予防等、いわゆる「消費さ」の薄い、でも生存に必須の仕事が安く見られてる異常さは、インフラ前提で平気でいられる“文明人”のメンタリティの異常さと軌を一にしてる。
生存に必要な衣・食・住を最前線で支えている人の賃金よりも、カネを右から左へ移し、サービスを享受しながらそれらサービスの上に新たなサービスを創る、実体経済と対義的な金融経済みたいなものがもてはやされてる現代が、実は正常でなく異常であることをコロナが突きつけてると思う。
農耕が始まり都市が生まれ、徐々に社会は分業的になり、アダム・スミス宜しく資本主義の駆動性の向上を期して「分業化」が加速し、気がつけば僕らは衣食住を「提供される存在」になった。この帰結は必然性のないものなのだけど、必然であるかのように僕らは市場に植民的に扱われてる。この認識はポストだかアフターだかを論じる時に必須だと僕には思われる。
メルケル独首相の「普段あまり感謝される事のない人に感謝を送らせて下さい。スーパーのレジ係や商品棚を補充してくれる方…彼らはいま最も困難な仕事の1つを担っています。市民のために日々働いてくれてありがとうございます。私達の生活を維持してくれてありがとう」の言はそのとば口を示すもの。
「支え手」よりも「人を操作する力を持つ人」が評価される価値観から見直したい。ナショナルな経済システムにぶら下がり、それを侵食するグローバリズムに翻弄されながらもそこに手放しで身を預けてしまう危うさが今回の社会のモロさの端的な現われでは。生存からの距離という尺度は忘却しちゃいけない。
今回、特にゴミ収集車がこなくてゴミがたまってる現場、荒れたところをみて、上述の強烈な問題意識が生まれ、心に刻まれた。ゴミを集めてくれる人がいる。恥ずかしながら僕はそれをあたりまえのように考えてた。
根っこの気づきは
「文明の脆弱性」でも
「自身の社会の中での歯車感」
「存在のちっぽけさ」でもなく
(それらもあるけど)
一番は
「社会システムに依存してる事への忘れ」と
「生存を盾にした戦略的攻防が手軽に選べる怖さ」
「生存との距離感の価値転倒」
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って考えてまた自分の先日のnoteを見直す。自分と社会を内省的に見直したくて。