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【首都移転!?】インドネシアの地理と歴史に迫る!?

こんにちは。
少し前から話題になっていましたが、インドネシアの首都移転が正式に決まりました。

首都移転… 「なんかすごい!」
しかし、日本でもみんなが知っている似た事例があります。

奈良の平城京から京都の平安京への遷都!?

中学校の社会の授業で誰もが聞いたことがあるはずです。

現代でも首都移転をした国もあります。

ケース① カザフスタン・・・1997年アルマティからアスタナ(現在ヌルスルタンと改称)に首都を移転
ケース②  ミャンマー・・・2005年〜2007年にヤンゴンからネピドーに首都を移転

首都を変遷するのには、その国の情勢や地理的理由などがあります。
それでは、インドネシアの首都移転の理由を地理や歴史から紐解きたいなと思います。

1 インドネシアの基本

そもそもインドネシアってどこにあるのかを知らない人もいると思います。
インドネシアは、東南アジア南部に位置する島国です。主な島として、現在の首都ジャカルタのあるジャワ島、天然資源が豊富なスマトラ島、新たな首都が置かれるカリマンタン島(ボルネオ島)、観光で有名なバリ島、グリーランドの次に大きいニューギニア島などがあります。

インドネシアは、5,110kmと東西に非常に長く連なる、世界5位の1万3,466の島嶼を抱える島国です。

公用語はインドネシア語で、人口は2億7,020万人(2020年統計)を超える世界第4位の国です。人口密度も世界4位で、ジャワ島に人口の約56%の1億5,000万人(日本人口の約1.1倍)が集中しています。また、世界最大のムスリム人口(イスラム教徒人口)を有する国家でもあります。

面積は約192㎢(世界14位:日本の約5倍)で、GDP(MER:市場為替レート 2020年)は、1兆596億3800万ドル(世界15位)の規模の国です。

東南アジア諸国連合(ASEAN)の盟主とされ、ASEANの本部が現首都のジャカルタに置かれています。

2 インドネシアの地理、経済

ユーラシアプレートやオーストラリアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートの4つのプレートがせめぎ合っており、環太平洋火山帯(造山帯)序一部を構成しているため、国内に多くの活火山があります。さらに海溝が多いため、地震も多く年間地震頻度は世界2位(1980年〜2000年)となっています。

東南アジアの熱帯雨林気候という気候もあり熱帯雨林の森林が多くある。
しかし国の人口密度の高さと急速な工業化によって、環境問題は深刻化しているので、早急な改善策が必要である。

食用・洗剤・シャンプー・化粧品などの原料となるパームオイル(パーム油、ヤシ油)の需要が高まり、増産が見込まれ、エステート作物面積の急激な拡大によって森林破壊が進んでいます。
さらに、鉱石やLNG(液化天然ガス)が豊富であるため、採掘や森林の伐採によって森林破壊は急速化している。その中で、森林伐採決定付近の住民と土地問題で争いも起きています。

インドネシアには115の国営企業(2019年)があり、雇用維持など政府の意向が優先されることが多い。その中で政府とIMF(International Monetary Fund:国際通貨基金)の合意によって、国営企業の民営化も進んだが、失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題になっています。

国民の半分以上がジャワ島に集中しているため、現首都のジャカルタでは人口950万を超えています。都市圏人口は東京に次いで世界2位。交通渋滞が常に起き、政府機関の会議にも支障をきたしています。

ジャカルタの北部の海抜は低く、南部は丘陵地となっています。そのため河川は南部から北部へと流れます。最も重要な河川はチリウン川でジャカルタ市域のほぼ中央を流れている。ジャカルタの低い地形、潮の干満、雨季の降水量によって氾濫を起こします。

①1都市集中の人口過密による交通渋滞によって政治に支障が出る
②森林破壊が急速化したため、森林の役割である都市保護が機能せず大洪水による被害の拡大

これらの要因が首都移転の理由になっており、昔から首都移転の話題が出ていました。

3 インドネシアの歴史

オランダ統治時代

大航海時代の16世紀、香辛料貿易の利益を求めて、ポルトガル、イギリス、オランダが相次いで来航。17世紀にはバタヴィア(現在のジャカルタ)を本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立します。

東インド会社により搾取され続けて、ジャワ島を支配されます。そして19世紀のアチェ戦争によってスマトラ島まで支配下を伸ばし、現在のインドネシアの領域全体がオランダ政府の直接統治下に入ります。

独立運動時代

オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭に民族意識が芽生え、ジャワ島ではブディ・ウトモ(最高の英知を意味する知識人中心として結成された民族主義団体)が結成され、原住民の地位向上を図る取り組みが起きました。

1910年代にはイスラム教系大集団体のサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆運動に成功し、インドネシア共産党がオランダ政府と大きく対立していきます。1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と一祖国、一民族、一言語という思想を掲げた『青年の誓い』を宣言します。

インドネシア国民党の運動は民族の独立を掲げていた中で、インドネシア共産党が反乱を起こしたことで、オランダ政府により弾圧された。また政府はスカルノが主導する民族主義運動も違法とし、スカルノを逮捕し拷問と流刑される。これによって、民族主義運動は冬の時代を迎えることになります。

日本占領下時代

第二次世界大戦が勃発し、アジアでは満州事変によって、日本が国際連盟から脱退し、加えて日中戦争が激化し日本とアメリカ・イギリスの対立が決定的となりました。

その中で、日本はアジア諸国と協力しアジア諸国から欧州の勢力を排除することを目的とする「大東亜共栄圏」の実現を目指し、日本軍は東南アジアへと進行します。

ボルネオ島、スマトラ島の油田を支配した。そして、日本はスカルノを救出して日本に協力させた。オランダが実施してきた愚民化政策を取りやめ、日本は高等教育を実施して、多くの大学を開校し短期間で現地エリートを養成した。

1943年日本の戦局悪化に伴い東南アジアの支配下の現地住民を武装化させて戦争に参加させるようになる。

独立戦争時代

1945年8月15日に日本が降伏した後、17日にスカルノなどの民族主義者はジャカルタでインドネシア独立宣言を発表した。しかし、オランダは認めずに再植民地化に乗り出し、独立戦争へと発展します。

そこで、活躍したのが日本が養成した軍隊と連合国軍に対する降伏を認めない日本軍の一部です。この戦争で1,000名以上の命を落とします。

他方で、第三国(イギリス、オーストラリア、アメリカ合衆国)などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールします。さらに発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。

結果として1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦及び平和的手段による紛争解決が提示されます。

独立戦争は4年間続き、オランダに対する国際的非難が高まり、アメリカの圧力によってオランダは独立を認めます。

スカルノ時代

国家財政の健全化を図る長期計画を立てるが、民族的にも宗教的にも多様で各派の利害関係を調節することが難しく、議会制は機能しなかった。また1950年代後半には多くの反乱が起き国家分裂の危機に直面しました。

スハルト時代

スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、新体制を立てます。強引な開発政策やインフラの充実、工業化などにより一定の経済発展を達成します。
しかし、アジア通貨危機によって経済混乱の中、暴動が勃発し政権は崩壊します。

ウィドド時代

第7代大統領。首都ジャカルタからカリマンタン島の東カリマンタン州に遷都する考えを表明。2022年1月18日で国会において賛成多数で可決され、新首都「ヌサンタラ」とすることを発表。2045年までに移転完了することを予定としています。

まとめ

このようにインドネシアでは、先進国や戦争による支配下が多く、安定した時代が少ない。支配下に置かれた国では労働力の確保のために、子供を産み労働者を増やす傾向があります。
スハルト政権下で経済が発展している中で、1人の女性が産む子供の平均は5〜6人となります。しかし、スハルト政権は人口抑制を強化していき、スハルト政権崩壊するとき、1人の女性が産む子供の平均は約2人となります。

今でも1人の女性が産む子供の平均は、2〜3人と人口は増えつつあります。10代で妊娠する女性が多く、その女性は農村地域の低所得者の出身で教育水準が低い。24歳以下の女性170万人が出産し、うち10代が約50万人となります。
このような境遇の子供が成長し、ジャカルタに出稼ぎに行きます。これによりジャカルタの人口密度が過密になっていきました。そしてこの層がバイクで移動をします。その結果慢性の交通渋滞が起き、大きな経済的損失や政治機能を低下させています。

政治的側面
支配下時代によって、人口が増加→低所得者のジャカルタへの出稼ぎ→バイクの爆発的な増加→交通渋滞によっての経済損失と政治機能の低下

地理・経済的側面
人口増加によって住む場所の確保→歯止めの効かない森林破壊→大規模な洪水

もともと海抜が低いという土地柄→地球温暖化による海面上昇→国土面積の縮小






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