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あさま山荘事件【昔の事件を今の若者へ繋ぐ】
こんにちは。
今回は、「あさま山荘事件」について書いていきたいと思います。
あさま山荘事件は、ちょうど50年前の1972年2月19日〜2月28日にかけて連合赤軍の残党5人が人質をとって立て篭もった事件です。
連合赤軍の歴史
1971年から1972年にかけて活動した日本の極左テロ組織、新左翼組織の1つです。
共産主義者同盟赤軍派と京浜安保共闘革命左派が合流して結成されました。
日本の学生運動は大正デモクラシーの時期から始まったが、戦後になって盛んになります。
戦後アメリカをはじめとする連合軍の資本主義化指導から浮き出てきた反戦運動、学費値上げ反対運動などが代表的なものです。
日本共産党で当時実権を握っていた所感派が戦後から再開した「武装闘争」路線を信奉する急進的な学生党員は、1955年日本共産党第6回全国協議会では武装闘争路線を転換した指導部への不信・不満を募らせ、日本社会党に続いて日本共産党という既成左翼党が武装闘争路線を事実上放棄したとして反発したとして反発した者達を中心に、当初の日本共産党の武装路線を継続する新左翼と呼ばれる過激派が誕生しました。
資本主義によって経済が発展し、学生運動が下火になっていたが、残存する新左翼組織であった赤軍派と革命左派は「大菩薩峠事件」や「よど号ハイジャック事件」などを起こし、最高幹部クラスが逮捕、国外逃亡をし弱体化しました。
弱体化した赤軍派軍事組織の中央軍と革命左派軍事組織の人民革命軍が統合して「統一赤軍」が結成されます。
赤軍派幹部の森恒夫は党の統一を志向していたが、革命左派議長の川島豪らの強い反対で「連合赤軍」と改称されました。
あさま山荘事件
1970年初頭連合赤軍の前身である革命左派と赤軍が連続銀行強盗事件や塚田鉄砲店襲撃事件を起こして、逃走を繰り返し警察に追われていた中で、警察から逃れるために群馬県の山岳地帯に拠点として「山岳ベース」を構えました。
連合赤軍は、山岳ベース事件という大量殺人事件を起こします。集団リンチを加えて12名を殺害し、そこから逃亡したメンバーがあさま山荘事件を起こします。
日本の新左翼組織連合赤軍のメンバー5人が管理人の女性を人質に浅間山荘に立て篭もりました。
山荘を包囲した警視庁機動隊と長野県警機動隊が人質救出作戦を行うも難航します。
死者3名(機動隊員2名と民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、報道関係者1名)を出しました。
事件が起きて10日目の2月28日に舞台が恐慌突入し、人質を無事救出し、犯人5名を全員逮捕しました。
人質は219時間(約9日)監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長です。
酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビで生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分には民放、NHKを合わせて視聴率89.7%に達した。同日のNHKの報道番組(9:40 - 20:20)は、平均50.8%の視聴率を記録した。
これは事件から50年が経過した2022年現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。