週間レビュー(2022-7-31)_建築が、消費の海から這い上がる方法はあるのか?溺れたままなのか?
バタバタとしてしまい3週間ぶりのレビュー、全ての週でとても濃かったので3週間分は別々にレビューしてみる。今回は7月の最終分。論考っぽいのが多め。
1.十和田市現代美術館
青森に初めて訪れた。本州最北端、常に自分は北にいる気がするな…と謎に感じがしながら美術館を周り、初めましての人たちと会いつつ美術館をテクテクと巡る。
十和田市美術館は建築としてというより美術館という体験のUXの再定義だなと思った。建築空間として感動するというより、美術館はこのようにあることができるか!という発見である。サイトスペシフィックという建築家が美術館を語るときに用いがちなワードも、引いてみたら美術に没入させるためのUXの再定義でしかない。
また、十和田市美術館では「美術の面白さを発見する」という主体的な楽しみ方が参加者の中で実践されていたように思う。私にはこれを見つけた、こんな面白さがあった…など。分棟型のホワイトキューブの隙間には美術作品が施されていたり、よく見ないとわからないような場所に作品がいたり。常に入れ替えることで成り立つ美術館が一種のショッピングモール形式だとしたら、十和田市美術館はスルメのように、自身の身体性を駆動させることで深みを増すようなそんな美術館であった。西沢立衛の思う壺だと思うが美術館の定義を揺さぶられた。
2.データを編む、池田亮司
池田亮司展を弘前れんが倉庫
自分が初めて作家の作品を体験したとき、咄嗟に音楽のようだな〜と思ったが後々池田亮司のことを調べていくとその通りであることがわかった。池田亮司の作品は「データを編む」ことに主眼を置いており、特に音をサイン波と捉え数学的に処理している。個人的に彼の作品になんとなく世界観としての愛着があるのは実験データやグラフ、数学的に生成された曲線美などにうっとりしてしまう傾向が自分の中にあるからだろうか?
どの作品もデータを絵の具として捉え、再解釈し直し、絵や音楽、リズム、数学というものを統合した神秘的なメディアとして興味深く思った。
音楽や数学と建築…クセナキスなどがいるが、現代においてメディアの画期的な変換という文脈から捉えたとき、池田亮司のような方法論で建築は捉え直せるかもしれない。
3.エンジニアリングではなくブリコラージュという生き方
今回の青森視察で最も印象的だったのは、キャンピングカーに乗って生活している5人家族に会ったことだ。
彼らに言わせれば僕らは「箱の中で、アンカーを探して生きている」「新たな人間になろうとする支度ができていない」ということだった。言葉だけ聞くと独特で大丈夫かなと感じるかもしれないが、会話しながら解釈を重ねると腹に落ちてくる。
つまりは「箱」という決められたゲームルールや社会構造のなかで存在し続けるには、何かしらの立場や視点、役職やアビリティを持とうと自己を律し続け、そして更新し続けねばならない。しかし、本来人間はそのように人的資本論に踊らされた人間観である必要はなく、置かれた場所で、どのように他者や自然と協力し、できること/できそうなこと/やりたいことで生活を回すのか、それこそ人間の尊厳を全うする生き方であるということだ。
レヴィ=ストロースは「野生の思考」でブリコラージュを唱えたが、エンジニアリングのような生き方としての人間像ではなくブリコラージュのようにいきることも可能ではないかという問いかけとそれを実際に体現していくことが重要だということだろう。
4.社会派の建築家像の模索
社会に包摂されてしまう労働はしたくないな〜と思いつつ日建設計のミートアップに足を運んだ。意匠設計部では色々なプロジェクトの紹介やどのように働いているのか?休みはどのくらいなのか…のような事前にリサーチしたらなんとかなるような質問ばかりで退屈ではあったが、話してみる中で絶対的に組織設計事務所に伸び代はないことに気がついた。
まず最も印象的(失望した)のは宮下Parkの意匠設計の話について。
宮下Parkはホームレスの退去問題、渋谷というカルチャーの解体に一役買った問題のプロジェクトであると思うのだが、設計サイドは「複雑な問題を解き、利害関係者やクライアントの満足度も結果的に高くなり、誇りに思っている」と言っていたことにある。
いやいや…デザインという暴力によって、そして、あなたたちの独善的な設計能力を見せつけるために、お金をどれだけ産むことができる公園を作れるかという視野狭窄なゴール設定を満たすために….どれだけの渋谷の原風景やダイバーシティを奪い、利用する人間のターゲットを絞り、渋谷のカオス性を壊したと思っているのですか?と問いたくなったが、そのような内輪の論理によって大体の建設プロジェクトは推進されいてるのだろうと感じ、その嫌悪感を覚えてしまった…本当にありえないとすら思う。
やはり、プロセス上の熱気に酔いすぎるのは良くない。常に俯瞰の目線を持ち続ける努力をする必要がある。そして設計している建築が不可逆性の高いものであるとき、誰を排他してしまうのか、誰を取り残してしまうのかを問い続けなければ、デザインの暴力と呼ばれる行為を知らないうちにしてしまうのである。しかし、これは設計者の問題だけではなく、設計プロセス、建築生産のプロセスの問題でもあるように思う。特定のクライアントの満足度を高めることを第一のゴールを置いて行う建築設計というのは、どうしても生活者視点を消し去りやすいのだろう。
どんなに「なかなかないプロジェクトに携われる」「福利厚生ちゃんとしてる」「質の高い設計経験を得ることができる」…のような言葉に踊らされたとしても、そのような設計のスタンスに加担したいと自分は思わない。あなたたちは確実に「デザインの暴力」を生活者に振るっていることを自覚してほしいと切に思う。
5.設計課題、前期学んだこと、講評会
設計製図の前期が終わった。なんとなく、忙しさに託けて丁寧に設計できなかったなという悔しい反省と、建築学科の論理にうまくはまりきれなくて、すごく苦しかった。シンプルに食らいつこうとする努力が足りないのかもしれないとも思うが、設計課題という存在自体に対しての不信感の方が強い。
どこか割り切り、そして盲目的にやってみることが大事なのかもしれないが、自分にとって、設計課題を行うこと自体が貴族の知性を使った空間の遊びに見えて仕方がなく、それが苦しい。教授たちは練習だからというが、練習している暇などあるのだろうかと思うし、停滞し、繰り返し変わらない評価方法で回されるこの建築教育に果たして未来はあるのだろうかと思う。主に3点において問題を抱えていると思う。
①美学の再生産という視点
まず建築教育の構造として、伝統の踏襲や同じ美学の再生産という方法論での教育方法が展開されており、非常に「ムラ的」である。変わらない教職員、男女構成は常に男性優位、そして日本人の教授のみ。とても保守的な構造を持って同じ美学をいかにトレースしているかを基礎教育であると捉えてる。これは昨今の多様性の観点からすると流動性や新たな視点を許容しない問題の構造である。あえてムラを作り、囲った上で同じ美学を刷り込む…イレギュラーな解答に対してはそれは「建築ではない」と一蹴する。これが建築家教育というのであれば、その建築家教育を続ける限りは尻すぼみの業界でありいずれ消滅することは免れないと思う。
②生活者視点のない評価と設計者の自己評価
そして生活者の視点が全く存在しないことも大問題である。誰のために建築を作るのか?という視点がどうしても「私の表現のため」が先行している。申し訳ない程度に敷地周辺を読み解いたり、UXを捉えたりしている人もいるが、最終的にはプログラムやリサーチの妥当性よりも造形や空間操作が評価の対象だ。(こういうのが終わらない限り、宮下パークのような悲劇は設計者によって繰り返されるだろう)
また設計者も課題への認知や生活者に対しての感情を題して持っていない。自分はこれを上滑りの建築と呼んでいるが、「建築が社会課題を解く重要な要素になり得ない」理由はここにあると思う。建築には本来は社会課題を解く力があるが、建築設計者が対して向き会わず、そしてホワイトカラー、ブルーカラー…社会を構成する様々な人に触れずに社会人になっている。
③フォーマットの画一性
早くB2のプレゼンボード祭りや模型作成の提出など決まり切ったアウトプットフレームを解体した方が良いだろう。技術的な発展や環境的な問題、そして労力のかける対象が社会から完全に逸脱している。多くの学生は先輩のフォーマットを真似しピンタレストから参考を拾い上げている。もはやAIに設計させた方が良いだろう。
批評としてはこの程度で、自分は自分で自己を教育するので問題はないが、世界の地方都市としての日本、その中の建築学科の教育方法は完全に田舎者である。
6.建築家なしの建築リバイバルについて
建築家なしの建築の再来のような文章やリサーチを作りたいと考えている。 最初の「建築家なしの建築」は、社会的不安定+ヒッピームーブメントに呼応するように生まれたポストバブル時代の石山修武やら河合健二あたりなので、まだインターネットが社会実装される前、かつテクノロジーの発展も十分ではなく、局所的な建築論の解答しかなり得なかった。(空間やアプローチは素晴らしいと思います)
現在、世界情勢が不安定なの事実や気候変動の問題などは1970sに重なる部分が多くあり、建築はあらためて「建築家なしの建築」の方向に向くのではないか?地位の落ちた建築の現在地も同様に重なるように思っています。 そこで「住居を持たず遊牧民として暮らす人々」「アドレスホッパーや多拠点生活の一般化」「メタバースなどの物理平面から浮遊する仮想世界への意識の移動」「AIによる建築の自動生成、3Dプリンティング、VRの空間想像=空間の民主的創造」「DIYなどのセルフビルドの現在地」などの事例を収集し、テクノロジーをフル活用した時代における「建築家なしの建築」の姿を見てみたい。
VUILDはデジファブをソリューションとして建築の民主化を図りますが、それ以外にも民主化を加速させる要素はあるように思いますし、国家的建築家や固有名詞としての建築家は解体されていくだろうと思うので、その先をこの観点から見てみたいと思っている。
7.建築が、消費の海から這い上がる方法はあるのか?溺れたままなのか?
伊東豊雄の言うようにもう30年以上建築は消費の海を泳ぎ続け、そして商品として包摂され続け、次第に資本に飼い慣らされた結果としての今の都市の形なのだろうと思うが、果たして対岸は見えてきたのだろうか?
近頃建築家の多くは「ホテル設計職人」と化してしまった。自分は政治家がどんどんとコメディアンやお笑い芸人(成田さんの言葉で言うのであればネコとゴキブリ)になっていくことと同様の動きであるように思っている。これを対岸と捉えるには少々悲しい。
都市の再開発を見ればわかるように、特に東京は現実生活が消費が作り出した恐怖的な虚になりつつある。なので特に都市に住む人々ほど異世界としてのメタバース、異なる経済システムに逃れようとしている。おそらくそれがWeb3やメタバース、新たな経済圏で建築を作ろうとする行動であり、必ずしも古典的な近代建築ではない。
消費で作られた虚実の都市からの脱出が今建築家の見えない場所で始まったりしていると思う。または建築家が役目を放棄した空間は社会の底が抜け落ちる形で、社会的な問題を引き起こしているのだろう。そろそろしがみついてでも消費の海から上がらなければ私たちは「ホテル設計職人」以上の存在の先にはもはや何もないだろう。
7月は総じて元気に動けなかった月だった。考えることはできても実務としての能力やベースの設計能力のようなものの低さが悔しいので8-9月は地道に頑張ろうと思う。
終わり