週間レビュー(2022-4-24)_イライラしてみよう。それからどうするかを決めよう。
18日 海外の建築教育
後藤春彦の講義を受ける。
イタリアの建築学科は1500人入学して15人しか卒業できないらしい。相当厳しい、熾烈を極めた建築教育だ。そもそも日本と欧米ではアーキテクトに対しての考え方が異なることは理解しているが、まさか0.1%とまでとは思わず、自分の国の建築教育が他国に比べ独特であることの意味を再考する。
イタリアのようなシステムによる職能スキルの高め方もあるが、人口の多い国や増加していく国はもっと人同士の競争性が強いんだろう。日本の競争的な文化ですら逃れて今まできた自分にとっては世界が全く違うなと思い、強い引け目も感じるが、逆に可能性も持っているはずだ。ただ今の先駆的かと言われたらそうではないし(ハーバードの建築学生は一人一台の3Dプリンターが配布されたり、とても広い模型室や材料庫と図書館がある。)既存の教育方法が最善であるとは到底思わないので、この国にいる限りは自分で自分を教育するほかない。
他国の建築大学の話もどっさりと聞き、25-27は世界で勝負したいと考えたりする。
19日 粘土と段ボール
制作をする。自分は模型を作る時は基本、粘土と段ボールしか使わないようにしている。それでエスキスや抽象模型は十分事足りるのと、スチボを沢山使って、大量に捨てられてる研究室前の光景がちょっと異様で苦手だからだ。生態論を語っていたり、脱炭素と建築を通して主張している教授や学生のはずなのだけど残念に思ってしまうことがある。なので自分はできるだけ行動と主張は細部まで一貫するように心がけたいと思う。
造形模型を作っていると、PCをいじっている時よりも明らかにテンションが上がる。やはり手で直感的にものを作っている方が楽しいらしい。
20日 ミュラー邸
今回は住宅の抽象模型課題。
作品を作るとき、それは社会にとってどんな意味を持つのかをまず考えてから発想したいと思う。それをエゴであり練習に励めと言われるけれど、それでは雰囲気の表現とか自己解釈の表現になってしまう。極めて個人的で、それはもはや自分の作品とは言えないのではないだろうか?と思っているからだ。なので先生方から何と言われようと、「社会にとって何を伝えたいのかを洗練させたい」という起点から作品を作る。これは自分のスタンスの話。
今回はロースのミュラー邸の解釈を彫刻化したいと思って作成に挑戦した。
コンセプト案は以下
結果的には自分の表現したいと思うものからはやはりどこか洗練させきれなかったが、自分が挑戦してみたいものの解釈に対しては取り組めたように思う。
津川さんから「前回からずっと講評に呼ばれずとも(呼ばれないとまず講評して貰えない)自分でレビューしてもらうためにプレゼンしたり、作品の課題のオーダーを超えているのは、ある意味課題に対しては反抗的だけど笑、建築を未来的かつメタ的に捉えようとしている姿勢は挑戦的で一種の才能だと思う。」とコメントをもらったのは、自分なりに試行錯誤して取り組んで良かったと思った。
やはり継続した課題は、自分の表現の幅が狭いことであり、自分のキャラクターに合った表現方法が生み出せていないこと。普通に作りたくないのは、自分がトレースができてしまうからこその逆張り的な取り組みなのだけど、そこをこねくり回しながら1年間かけて見つけたいと思っている。あと造形的に言えば、丸みをつけたのは本当に良くなかった。(夜中になんとなく蛇足してしまった…)
21日 音楽からアイデアが生まれる体験
ジャズを初めてちゃんと聴く。ジャズの音を拾うことに集中していると、音が頭の中で造形に変わったりすることに気がついた。(多分、設計課題をずっと考えているからだろう)テナーがはいるか、ドラムが入るか、穏やかかテンポの良いメロディーかで造形が頭の中で自動変換されるようで、面白かった。おかげで何個もアイデアが生まれた。
セッションのその場限りの掛け合いや繊細な楽器同士の噛み合わせなどはやはり建築と同じ要素を感じた。建築家に音楽好きが多いのはそういうことなのかもしれない。
演奏者は「時間は流れに任せたら残酷なほどに退屈になってしまうから、音楽を時間に刻むことで豊かさを取り戻している」と言っていた。
確かにそうで、時間というのは何かを刻み込もうとしなければ、ただただ流れてすぎていくだけであり、流れ続けた先にあるのは退屈な死なんだろう。だから人間は、時間に逆らうように何らかの形で時間に豊かさを刻もうとしているのだと再確認する。それはギャンブルも人間関係も旅行をすることも、ひいては建築を作ることも同じなのだろう。
どれも時間の豊かさの濃度を高めるものであり、そうして経済は良くも悪くも回っているのだ。
22日 都市デザインはどの辺が面白いんだろう
できる限り6時間は睡眠時間を取るように心がけているのだけど、朝起きるとどうにも体がだるくてもう一度寝る。二度寝しても頭がグラグラするし、テンションの上がらないどんよりとした感情が取れない。そういえば、最近瞑想や坐禅にも行くことができてない。病的なもの以上に精神的なものが大きいのだと思う。(躁鬱も情緒的な問題も症状というより精神バランスの問題だから)
こういう日は全ての決まっていた予定や講義をリリースして自由に過ごすに限る。無理強いして予定をこなす方が後々苦しさが増してくるからだ。
電車に乗って、横浜都市デザイン展を訪れる。馬車道なのでかなり遠いのだが、電車に長々と乗る時間は嫌いではないので、東横線に揺られながらフランク・ゲーリーの自伝を読み、設計課題のコンセプトを悶々と考える。(最近設計課題のことばかり考えている…)
横浜都市デザイン展は、勧められたわりにはあまり何の感情も起きなかった。展示会場のデザインも微妙で洗練はされていなかった(前提Bank artの展示会のコンセプトは面白いものが多いが、展示クオリティは毎回あまり高くない)都市計画を専門にしている人やデベロッパーの役員のような方が多く来ていた。横浜の都市計画史を編纂した作品が主だったが、やはり経済成長と地域活性や再生以外に開発のフィロソフィーが無かったのだろう。計画自体もそこまで突飛出たものではない。都市計画畑の人は何を評価しているのか、そこが気になるところである。
23日 核とタナトフォビア
ウクライナやロシアの問題はどう語っていいのか解釈していいのか未だにわからない。批判はできたり悲しむことはできても、何が本当の問題なのかも断定することも自分にはできないし、声を上げること以外に主張する術がなくて圧倒的な無力感を感じる。
ロシアの開発した核ミサイルは、飛距離無限で迎撃不可能かつフランスの国土全体を焦土にできるほどの威力を持っているらしい。そんなものを何かの拍子で撃たれたら世界はついに終わりな訳だけだけど、絶対に撃たれないという保証はない。その中で静かに毎日の日常が存在していたりする。
コロナ禍も酷かったけれど、今週はずっとタナトフォビアなんだろうと思う。いつロシアが攻めてくるのかわからないし、いつウクライナと同じ状況に日本がなるのかわからないなと思ってしまう。その中で目標に向かってエネルギッシュに生きることがどのくらい大事なんだろうと思ったりする。だからなんとなくちゃんとこういう記録を取っておくのが大事な気もしている。
全員が核兵器を持って抑止する以外に平和は訪れないのだろうか、平和に核兵器は本当に必要なのだろうか。技術や人工的なもの進展は人類の夢でもあるのだけど、人類が狂った時、やはり恐ろしいものでしかない。国家はAIに運営させたほうが平和なのかもなあと思って寝た。
24日 ゲーリーは超繊細な建築家だった
朝起きても引き続きだるい。引き続き、今週終わらなかった課題と仕事をこなすして、設計の制作をする。ある程度昨夜でコンセプトが決まった。
なんとなく今週はメンフィス、ゲーリーを勉強していたが、建築やデザインを生み出すことは、とても力がいるなと改めて思う。
自分で形を決めるというのはすごく勇気のいることだし、形には明らかに意味が伴うし思想が伴う。しかし簡単には人に読み取ってもらえない。空気の形であり、感性の形、心に囁くようなものである。現代美術やメディアアートは投げかけと極限の美学だけれど、デザインは対話の中で生まれるので削ぎ落としの美学だったりする。その中で個性を見出せないと誰にも相手にしてもらえない。そして無形ではなく有形である。だからサービスでもビジネスでもない。人類の最初の虚構のイメージなんだろうと思う。
何度も作って壊して、否定と肯定を繰り返して、大体いつまでも納得はできない。今回の設計課題はどんな締め方ができるんだろうとワクワクしつつも設計に向かうとイライラしてしまう。それも良いことなのかはわからない。
この気持ちを常に保つことが大事。
ネリ オックス マンのネットフリックスのムービーがとても良かった。
終わり。来週も頑張る。
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