週間レビュー(2023-2-25)
EASTEAST
ギャラリーを巨大空間で行ったようなアートイベントで、美大の卒展の延長線上のように自分には見えた。(雑多でライブ的、わちゃわちゃ感)
もちろん展示会のような洗練性はないが、アーティストが在廊し与えられた展示ゾーンでインタラクティブに鑑賞する。一般鑑賞者とアーティスト(とアート)がより近く理解し合えるようなコミュニケーションデザインがなされた場所だったのではないかなと思う。建築でいう第四世代の美術館とかそのような文脈を具体化するとこうなるんだろうと思う。
しかしどこか「感動的な展示設計+展示」みたいなものがなくて寂しくはある。集客を狙うとしたらこのようなスキームがベストなのかもしれない。
科学技術館の建築計画は美術館とも似つかない不思議な回廊構造。星型で昔の中世以降の要塞を彷彿させるような形態をしている。設計年度は1960年、オリンピックや万博前の時代。帝国大学の松下清夫・平山嵩が設計をしている。
ふたごにて我々世代の建築議論(なぜか)
なぜか…同じくらいの世代の建築学生と焼肉を食べながら熱量高めの建築の議論をした。あまり同世代でちゃんと建築議論できる友人がいないので笑とても学びになる時間だった。しかしZ世代という括りもあるのか、はたまたコミュニティ的な同質性なのかとても論点や視点が似ていて楽しかったのである。話したことはこの辺り。
1.建築議論を作り上げている人々の同質性の問題
自分は領域的をいかに拡張できるか(つまりこれまでの職能的建築を再定義するために現場に出ること)を主目的に探索しているが、彼の場合は異なるアカデミックの領域と建築の掛け合わせを行うことであった。
例えば斉藤幸平と都市構想を作るなど、哲学者や思想家たちと共に建築を作るという行為がもっと必要なのではないか?と。これは建築家という存在が言論の土俵やイデオロギーから排除(または自ら離れた)ことによる影響力や思考水準、社会との言語リズムの乖離を埋めるべきで、社会提示的な建築×アクティビズムをさらに展開させるべきであるという論。これは本当に一理ある。大学教授たちのジェンダーバランスも然り、言語も然り…確実に社会乖離が発生しており意味性が低いので変えるべきだと思う。
2.情報と気候変動、それに対しての建築史
そしてこれからの建築関係者が向き合わなければならないのは大きく分けて2つのトピックであるよねという話。一つは情報やテクノロジーの飛躍に建築はどう対応し、乗りこなすことができるのか?その先にどんな建築論を展開するのか?ということ。もう一つが身に迫る危機としての気候変動と建築である。この二つの分野は今逆流の方が力が強い。つまり情報分野や気候変動の分野(これはもはや分野でもないのだが)から建築や都市を作り変えることができるのか?という流れである。つまりはここで建築家がインパクトある形で何かしらのテーゼを出さなければ、社会的な建築家への期待は単なる綺麗にホテルを作ったり、時々大きなビルや美術館、公共施設を作る人に永遠にならざるを得ない。これらを統合し文脈として繋ぎ直すためには建築史や美術史と統合を図らないといけない。時間軸という大きなシーンの中で自分たちの作る建築はどう位置づけられるのか?を問い言語にすることを忘れると時間に耐えることができないのである。
3.分離派としての立ち振る舞いが求められるのではないか?
00年代の分離派は革新的だった。そのフォルムや哲学の青々しさを批評する人もいるが、時代に対しての争いや伝えよとしていたことの背後には明確な危機感が見える。この立ち振る舞いと私たちをどう重ねて見ることができるのかは重要である。当時は建築的なアプローチのみを提示していた。しかし現代では建築だけではないアプローチで可能である。そんな存在に私たちからなれないのだろうか?大学という最もイノベーションが起きない、熱のしんだ場所に建築家としてとどまる意味はなんだ?と。我々世代はもっと面白い建築が作れるはずであり、プレポにまとめることが生き甲斐になっている今を変えていくべきだろう
4.分離派としての立ち振る舞いが求められるのではないか?
東洋的なGenZは欧米とは異なる。建築においても違う戦い方ができるはずだけれど、私たちは常に欧米を追っかけている。これはなぜかを考えるべき。日本はなぜ建築等分野で今もなお国際的にも高い水準を保つことができているのか?これの理由を理解してない学生は多いかもしれない。つまりは東洋哲学×U25×日本的建築×テックやグリーンイノベーション(分離派)…のような掛け合わせ方で建築に新しい風を作れるかもしれない。そんなことをしたいし、nendoやTakramのようなデザインファームに足りないものはそこではないか?という話。
お酒の入った議論で暴論かもしれないが、良い視座を得たなと思う。この方向で自分は戦うだろうな〜とかなり確信した日だった。アカデミックゴリゴリの人に現場からのアプローチは建築分野では珍しいので良いと言われたのはそこそこ自信になった。
http://setagaya-mura.net/ishiyama.arch.waseda/fukuoka/jp/pr01.html
http://setagaya-mura.net/ishiyama.arch.waseda/jp/21agriculture.html
曳舟で海上都市と砂漠都市
初めて曳舟、そして京橋へ。独特なカルチャーを持った昭和を感じさせる街だった。どこか石巻に似ているなと思ったのだけれど、京橋付近のコンテキストは石巻ととても近い。京橋は関東大震災で残り、第二次世界大戦でも残り、バブルからも取り残された街だそうで、災害的なものから生き残りそこを土台として生活を紡ぐ自律的な力を持っているからだろう。街の匂いや色もとても似ている。石巻に住みやすい人はおそらく京橋にも住みやすい。
京島では、初めて会う映画関係者やデザイナー、アーティストの方々と都市の話をした。船を用いた海上都市や砂漠にどのように都市建設するべきか、それはなぜか?などふわっとした現実味のテーマ。話していると、やはり自分の建築観はネガティブなものからきているようだときがつく。建築は基本的には大地と人間をいかに切り離すのか?を考えることであり、近づけるためではなく、程よい共存部分を模索しつつも畏敬の念を持って対峙するべきだという考えである。ゆえに極地的な場所における建築方法というのはこれからの地球社会で非常に重要な観点となりうる。なぜなら地球時代の環境が限りなく非人間的になっていくからである。そこからどう人間を改変する、または空間を改変することで生活を可能にし、文化的行為を育めるように設計するのかは建築家の手腕。そこへの挑戦はこれまでも建築家がしてきたのだけれど、現実味が最も沸いている現在において挑戦できることは図らずとも幸せなのかもしれない。
その先のアクティビズム
18歳以降からどうにもデモ活動やスト活動が苦手になってしまった。Twitterでの言論も苦手だ。社会に対して無関心なわけではない。
デモみたいな行動自体に意味がないとは言えないが、どうにも戦いのフィールドに上ろうとせずに外からアプローチしない感覚があまりポジティブに捉えることができない。自身の状況として上がれないという場合もあるかもしれない。それは公正にするべきだ。しかし、野蛮なデモ以外のアプローチの方法はたくさんあるはずだ。変わらないのは何か理由があるはずで、そこに無思考になるのは、行動している自分に酔っている点がどこかあるのではないかと思う。大震災以降の原発デモがいかにスベッたことか…僕は身をもって知っている。
反知性的な行動と知性的な行動のバランスが取れていないと、社会変革などは成功しないと思うし、リベラルな人々であればあるほど視野狭窄になり、一体感を得て正義を誤解し、見誤ってしまっている。ポジションや自分のバックグラウンドを利用して果敢にフィールドにプロダクトやサービス、建築空間で勝負をするべきであり、アクティビズムは違和感をもとにして、声や行動だけではなくビジネスやプロダクトに昇華させることである。
個人的には、そこを履き違えないで行きたいと思う。
FUYUNOYAONに行ったとき思ったこともそれが大きかった。
ジャパニーズマゲニーズが、厚生労働省に対して音楽に合わせて暴言を吐いて観客が盛り上がり賛同する。これが我々の意思であり、悪政を訴える。
ヒップホップの始まりはなんだったのだろうか?
カウンターカルチャーとはなんだったのだろうか?
反発し否定をしても社会は育たないはずなのに、どこか歩み寄ろうとする寛大な心すらも生き残ってない。そんなヒップホップの状況を悲しく思った。憎み合っても手を繋ぎ直したり、理解し直せるそんな空間や建築をもっと作らねばならないと思った。
農地改革実践
農地改革のプロジェクトを本格的に動かし始めた。
これはまた今度別途書こうと思う。3月末などに!!
デザインとビジネスのその間の言語
今週の一番の気がつきは意外にもプロダクト系のプロのデザイナーの感性的な言葉をちゃんと汲み取ることができる、会話ができるということだ。そしてビジネスデザイナーの言葉とも会話を広げることができる。年齢はかなり違うのだけれど、両輪で言語を扱うことができるのはかなり稀かもしれないと思った。これは早稲田で建築設計を学んできた一番の成果な気もしておりとても嬉しく思った。
にしても。プロジェクトもタスクも毎日満載でパッツパツな毎日。怒られて悔しいことも多いが、多動に頑張らねばならないなと思う。色々と仲間ができたり、一緒に考えられる同世代の友人がちょっとずつ増えてきたのがとても嬉しい。