悪魔再降臨
入院
母親は、オレが小学校3、4年ぐらいの時に女子医大に入院した。
たぶん入院した時は母親の病気は前向きに捉えていた時期だから、3年生ぐらいだと思う。色々調べれば正確な時期はわかるが、頭の中には残っていない。たしかあの担任の先生時だったと思うぐらいの記憶だ。
(これまで書いてきた出来事との前後関係は覚えていない。)
父親の苦肉の策だった。
母親を説得し、納得させた上で前向きに病気に向き合った。
少なくともオレと父親は心底向かい合った。
母親も瞬間的にだが今後の人生を立て直そうとしたことは確かだ。
本人の意思なくアルコールの専門施設に入所できない。
この病気は本人が病気と向き合わないと治療が始まらない。
このコラムは、ある荒廃した家庭に挑んだ、1人の青年の記録である。新宿に生まれ育った無垢な小学生時代に、アルコール依存症とバイセクシャルという特異な両親に囲まれ、酩酊した母親と強制的に初体験をさせられ、その後30年近くに渡り自身もアルコール依存症に苦しみ、その中で設けた我が子との絆を通じ、寛解するまでと、その原動力となった信頼と愛を余すところなく完全実話で書き下ろしたものである。
学校帰りに毎日のように(脳神経科だったかと思う)病院にお見舞いに行った。
にいちゃんばあちゃん(お世話になった近所の屋台街仲間)と一緒によく行った。
母親の面倒も、オレの面倒もよくみてくれていた。
感謝が尽きない。ありがとう、にいちゃんばあちゃん。
本当にありがとう。
だいたいお見舞いに行って少し話して、
それ以外行ってもやることがないから屋上で壁にボールを当てて1人遊んでいた。
時間が来たら帰る。
そんな毎日だった。
酒が抜けた母親はとても穏やかで優しく、オレのことを愛していることがよく理解できる対応をしてくれていた。とにかく気が利くし優しい人だった。酒を飲まなければ。
ずっと優しく穏やかな母親であって欲しいと心底願った。父親も同じだ。
お金が結構かかったと言っていたが、高額医療請求ができるから戻ってくると父親は言っていた。子供ながらにそんな制度があって安心したことを覚えている。
(心配しなくても大学まで行かせるお金はあるから安心しろと、そのぐらいの時期に言われたことがあるが、いざ大学受験という時期になったら高校卒業したら働けと言われ愕然とした。)
女子医大に入院していた母親は、入院期間とその後のリハビリのような時間があり、たしか約6ヶ月断酒できた。
落ち込んだ日
だが、ある日働きに出て、ストレスを感じたのか、大久保ばあちゃん(屋台街のボス)と喧嘩したという言い訳をして大きくスリップした。
スリップというのは再飲酒のことだ。
昼間、学校帰りか休みの日か忘れたが、
日が出てる時間に何かブツブツ言いながら
グリーンカラーをまとった昭和の受話器を手に取り、
「あのやろー許せない、、、ぶっ殺してやる」
などと応答もしてない相手に対して吠え立てていた。
その日は忘れる事がない。
俺の人生観を完全に変え去った。
時空が歪むぐらい質量密度が大きな不審という不消滅の黒点が降ってきた。
とてつもなく重い悪玉が脳天を貫いた。
辛いけど、
この現実を受け止めなければならない事。
カラー画面が一気にモノトーンに落ち込む。
怒りと落胆が襲ってきて、
瞳孔が経験したことのないぐらい絞られ、
被写体を遠ざけた。
最悪の日と言って良い。
今までの人生で一番最悪です。
身体が現実を受け入れたくないと拒否反応。
電話台の前で怒り狂いながら受話器を持って立っている姿は、
薄く入ってくる昼下がりの日の光と共に、、、
俺の中では母親の名シーンの1つだ。
<写真>お宮参り・親戚、仲間一同と