129 続・共感が糞だった日
はじめに
前回の「129 共感が糞だった日」が、思ったよりインパクトがあったのかな?と感じていて、フォローの記事を書いてみます。まずは、私自身の反省から始めたいと思います。
懺悔あるいは嘆き
私自身は、NVCの歩みにおいて、これまで「同情」と「共感」は違う。同情してはダメです!という”教義”を身に着け、実践し、他の人にも伝えてきました。
それは、根本的に誤りでした。もっと言うと、自分の実践の愚かさがどれほどの痛みを生んできたのだろうかという、大きな嘆きを抱えています。
もし、私が息子を亡くしたことと関係して、私に投げかけた言葉でご自身が、私によくない影響を生んだのではないか?という心配を抱かれたとしたなら、そのことで心を痛めることは1mmたりとも起きて欲しくないと、私は願っています。
困難な状況にある人に、声をかける難しさを、私は、声を掛けられる側になって強く自覚しました。
大きな悲しみを目にしたとき、それに耐えられなくなるのと、相手の人になんと言葉をかけてよいかわからなくなるのです。
結果として、困難な状況にある人は孤独になります。
あなたが勇気をもって、その困難さを乗り越えて、声をかけてくださったことには、感謝以外ありません。
同時に、私は、無残な共感を実践してきた、先頭走者であるからです。あなたを責める権利など、私は決して持っていないのです。
それでも、という方がいらっしゃるなら、共に嘆きましょう。
共感についての知的な整理
共感について、混乱している方がいるかもしれません。
じゃあ共感するにはどうしたらいいの?という葛藤があるかもしれません。
そこで、ジャイアンに暴力を振るわれて泣いて帰ってきたのび太君に、どう声をかけるかを例にして、図表にしてみます。
あまり、知的な作業を続けるのも、本筋から外れるので、共感をシンプルに言うなら二つです。
(1)相手と絆を結ぶことを大切にし、共にいること。
(2)相手に対する先入観や決めつけを排除し、自分以外の人の経験を敬意とともに理解すること。聞けているかを確認するために、確認の言葉を投げかけること(感情とニーズの確認)。
共感に似て非なるもの、NVC学徒の陥りがちな罠
マーシャル自身が、「言い換えしても意図と誠意が相手に受け取られないとき」、として、指摘している文章があります。
NVCとはOFNRだという誤解が広がっているように、私は思います。
OFNRなんて、単なる道具なんです。
NVC学習者は、OFNRの手順が完璧に正しくできれば、共感が完全にできるという誤解をしがちです。というか、私はそういう誤解を長く続けてきました。
NVCの目的は、そこにはないんです。
特に、先ほどの「共感の整理表」の②と④は同じ言葉の投げかけなので、混乱が生まれます。
もし、OFNRという型があるがゆえに、目の前にいる人と絆を結べないなら、直ちにOFNRを捨ててください。
そして、敬意をもって相手と、ただただ共にいることから始めましょう。
最後に
NVCは原理はシンプルですが、その実践は、果てしのない道のりであると感じます。
今回、文章を起こすにあたって、マーシャルおじさんの参考となる言葉があったので、参考に添えますね。
私の愚論が、皆さんの人生を、ほんの少しでも生き生きと、より素晴らしいもにする役に立つといいなと、心から願っています。
【参考】
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