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108 誰かのせいにするという快楽

ああ、このテーマ。
書くことに怖さがあります。

誰かを責めたり、傷つける意図はないんですが・・・・
私の意図と異なる影響が生まれるかもしれない。

恐れとともに、書きだします。

ある時、ふと気づいたのです。
誰かのせいにするのって、とってもお手軽なすり替えだと。

ここは、本当に繊細さがあって、あなたが誰かから傷つきや悲しみを与えられたときに、相手に責任があるのを否定する意味ではありません。
もちろん、相手のせいにするのが悪いっていうことじゃないんです。

しかし、明確にしたいのは、自分が何かの痛みを受けたとき、それを、相手の責任にすると、すごく簡単に気持ちよく、正義の批判者になれるのです。
これは、私にとってすぐに手に入る快楽なんです。

これだけだと、わかりづらいので、具体例を出してみますね。

例えば、今チャンネルを開いてニュースを見てるとこんな記事がありました。

この記事を読んで、私は簡単に「怒り」に乗っ取られて、政府・自民党・岸田首相を批判するわけです。
この子育てが難しい、閉塞感のある時代、そして子育てを遊びのようにとらえている連中こそが諸悪の根源だ!と。

これをすると、私の中がすっきりするんです。
悪いのは全部、アイツのせい。

私は、ちょっとは悪いかもしれないけど、アイツらに比べたらずっとましだし、何なら善人と呼んで差し支えないと。

ここで、冷静になって考えてみると、私は今49歳で、少なくとも20歳以降は選挙権を使って社会に参画してきたわけです。

もちろん、私の支持した候補者が当選してきたわけでもないですが、この社会の構成員の一員として、私こそが、少子化を招いた世界の一つの要因なのです。

「誰かがナニカが悪人だ!ゲーム」に参加している間は、私を見なくていいんです。
誰かを血祭りにあげてさえいれば、それで私は正義であると自任できるのですから。

なので、今は、ちょっとした「人生を豊かにするゲーム」に取り組んでいます。
次の福岡のイベントを作るのに、企画チームを組んだのです。

このチームの関係性の中で
「私は私を被害者にしない」
「私は喜びのエネルギーと繋がって行動を起こすことを目指す」
「誰かに(自分にも)強要・強制しない」

「相手に何かをお願いする全てのステップにおいて我々が目指そうとしている世界をエネルギー的に反映する必要がある」

Heart of Social Change(社会変革の心)より

そして、それを実践することは、私にとって、途方もなく難しいチャレンジだったりします。

できない自分を許容しながら、それでも、憧れに繋がって進んでみます。

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