103 善意のつもりで、意図がすれ違う(その2)
意図したことと、影響が異なる形で生まれたことは、私にとって、とても痛い経験として現れました。
一つは息子との間です。
昔の話であり、私が、NVCに足を踏み入れるきっかけとなった出来事です。
息子が、幼稚園の頃から続けていたサッカー。
中学2年生の時、思いつめた顔で、「お父さん、サッカー部をやめたいんだ」と話しかけてくれました。
息子は、副キャプテンを務めていて、頑張っているのを知っていた私は「もうしばらく頑張ってみたらどうか?」と答えました。
あまり深く考えず、反射的に、励ましの言葉をかけたのだと思います。
その後、息子にとってつらい事が起きたのでした。
あの時、私はなぜ
「どうしたんだい?詳しく教えてもらえないかな?」
と、息子に寄り添う言葉が出せなかったのだろうかと、今も悔いています。
(ちなみに、自責から嘆きに、だいぶシフトしました)
もう一つ・・・どころか、沢山あるのですが、私の主催したNVCのシェア会のことを思い出します。
2019の頃、私のNVC観は、
「NVCは自己との対話が主であり、まずは、自分を見つめることからはじめる」
というものでした。
さらに「痛みをケアすることが、その人にとって最も役立つだろう」という考えを持っていました。
なぜなら、私は「私には価値がない」という不都合な信念があり、その信念からくる痛みが和らいだことが、最もステキなNVCの体験だったからです。
さらに、場を開く中で、「参加者の抱える苦しみ」を相談されることも多く、サラから学んだ「聖なる誓い」のワークを勉強したり、IFSを学んだり、トラウマケアの本を集中的に読んだりしていました。
自分が学んだもののうち、「私がぜひ伝えたいこと」と、「自分が体験して最もステキだったこと」を集中的に伝える形式をとりました。
今にして思えば、なんという暴力的なシェアだったのだろうと、後悔があります。
自分と向き合うかどうか、まずは、本人の選択が必要ですし、深い痛みと向き合うのは、それぞれの人にそれぞれのタイミングがあるからです。誰かが押し付けるものでは決してないのです。
今も、私は「NVCは自己対話が主となる」という観点を持っています。
一方で、NVCを分かち合う時に、注意を払っているのは「その人がその人の人生の主(あるじ)であることを尊重し、私の考えるNVCを押し付けない」というところです。
少し長くなりました。
次回に続きます。
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