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100 マーシャルの価値観に異議申し立てる!

記念すべき100回目になります。
にもかかわらず?マーシャルと真っ向勝負を挑むのです。

ちなみに、私の投稿は、NVCアンチ?っぽい内容が多いような気がして、皆さんがどう受け取っているのか気がかりがあります。

とはいえ、正直に表現すると、マーシャルと私は世界観が違うなぁと思うことがあるのですよ。

本から引用します。マーシャルおじさんの言葉です。

はじめに
人は生まれながらにして自分以外の人を思いやり、与えたり与えられたりすることを楽しむ。そう信じるわたしにとって、長年、頭から離れないふたつの疑問があった。
人を思いやろうとする気持ちがいったいどういうわけでかみあわなくなってしまうのか、そしてそのあげく、暴力的になったり相手から搾取したりするようなふるまいに出てしまうのか。
逆に、どれほど過酷な状況に置かれてもなお、人を思いやる気持ちを失わずにいられるのはなぜなのだろうか。

マーシャル・B・ローゼンバーグ;安納献.NVC人と人との関係にいのちを吹き込む法新版(日本経済新聞出版)(Kindleの位置No.227-232).株式会社日本経済新聞出版社.Kindle版


マーシャルは「人は生まれながらにして自分以外の人を思いやり、与えたり与えられたりすることを楽しむ。」と言っています。

私の実感としては「人は人は生まれながらにして自分以外の人を思いやり、与えたり与えられたりすることを楽しむ。
という部分もある一方で、
暴力を楽しむこともできる中立的な存在である」なのです。

思い出してみると・・・・・

小学校1年生ぐらいの頃、学級の「ガキ大将」が、子猫を手ひどく扱って虐殺した場面を見たことがあります。
繰り返し高く放り上げていたのです。周囲の私を含む男の子たちも、大騒ぎしていました。

私は、心に疼(うず)く暗い喜びがありました。
(ちなみに、女子が「帰りの会」で報告し、先生はめちゃくちゃ激怒しました。)

私自身も、カマキリを捕まえ、バッタを与えて食しているのを大喜びで見ていた経験があります。

マーシャルは暴力を「ニーズを満たすための悲劇的な表現」と言い、人間の本来の性質ではないという見方をしています。

私は「人間は、暴力を楽しむことができる存在である。それは本来の性質である。」と思っています。
もちろん同時に、「人間は、思いやりと分かち合いを楽しむ存在であり、それは本来の性質である」とも思っています。

マーシャルと私は世界の見方が異なるのです。

一方で、私が暮らしたいのは「お互いが思いやりを持ち、分かち合いを楽しむ世界」です

「お互いが暴力を使い、力によるヒエラルキーを楽しむ世界」なんて真っ平ごめんです、絶対に暮らしたくない。

では、私の願う世界を作るのに、どんな方法があるでしょうか?
今のところ、私はNVC以外に良い方法をあまり知りません。

もっと簡単にできる、いい方法があればいいのにな。
例えば、セルフコンパッションとか、マインドフルネスは、私の求める暮らし創りに役立つのですが、“人との関係性”となると、うまく活用できていません。(私が知らないだけで、なにか方法があるとは思うのですが・・・・)

ちなみに、私はマーシャルを尊敬していますが、信仰する気はこれっぽっちもありません。海の向こうの会ったこともないおじさんなのですから。

私は自分の作りたい世界があり(それはマーシャルの願う世界ととても似ている)、その世界を実現するのに、一番役立ちそうな、NVCという仮説を、
試みているだけなのです。

マーシャルは、「暴力はニーズの悲劇的な表現」と言い、私は「人間は暴力を本質として楽しめる」と考えていて、この点で異なります。

同時に、私は「暴力のエネルギーを変容するには、一度、命の深いところにタッチして戻ってくるプロセスが必要で、それは、NVCのニーズを味わうことと同じである」と思っています。

結果的に、私は、マーシャルと世界を見る前提が異なるにも関わらず、同じ方向へ歩むのです。

世界を見る根本的なところで、私はマーシャルと意見が異なるので、かなり不真面目なNVC実践者と言えます。

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まさ@有吉正樹
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