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まだ、ぼくはしたことがない

大学生活と卒業後の2年間を暮した町の駅付近は、夜になると通りに男の人が点々と立ち、道行く人に声をかける、夜のお店がたくさん立ち並ぶところでした。
その頃のぼくは毎日、新しく作る舞台のことで頭がいっぱい。台本を書き、それを演出するのがぼくの役目でした。
深夜のファミリーレストランで朝まで書いていたことがよくあります。
お仕事の女の人とそのお客である男の人がやってきて、近くの席に座ると書くどころではなく、ふたりの会話に聞き耳を立てていました。

なぜそんな話題になったのか、突然、豚の話をはじめたひとがいました。
豚の習性、豚それぞれの性格の違い、豚ほどかわいい生き物はいない、と男の人は語ります。
はじめは興味無さそうだった女の人が段々と話に惹き込まれていくのを隣の席で、ノートになにか書いているふりをしながら、ぼくは聞いていました。
豚の話をする男の人は妙に魅力的で、話が終わるとふたりは店を出ていきました。

モーニングがはじまる時間になると近くのおじいさんおばあさんがやってきて、体操の後にみんなで朝ごはんを食べます。
こちらの会話は、健康のことや息子や娘についての話、その場にいない近所の人についての話が多かったのですが、印象的だったのは、泥棒が家に入ってきたところに遭遇したひとの話です。
その人、2階の息子の部屋にいたのでした。離れたところに暮らす息子は時々帰ってきますが、普段は使われていない部屋なので、思い出したとき、彼女は掃除をするそうです。
下の階で物音がしたので降りてみると見知らぬ女の人が台所に立っていました。
泥棒だと思った彼女は言いました。
うちにはなにもないけれど、欲しいものがあるならどうぞ。
すると、女の人は履いていた靴を脱ぎ、玄関から出て行った、ということでした。
あなたよくそんなこと言えたわね、わたしだったら、とその場にいたおばあさんたちは自分だったらどうしたかを言い合いました。
なにか盗られたかい?とおじいさん。
わからないのよね。
わからないんじゃ、困ることないな。
朝のファミリーレストランに元気な笑い声が響きました。

ひとりで書いていると、人恋しくなり、話しができるところへ食事に出かけます。
夜のお店が連なる通りに、おばさんひとりで昼間だけやっている焼肉定食のお店がありました。
七輪と肉とスープとお米、それにナムルのようなもの。カウンターのみ、4、5席のちいさなところです。
おばさんはかわいそうな猫についての話をよくしました。家の近くにいるかわいそうな猫、お店の近くにいるかわいそうな猫、猫という猫はおばさんにとってみんなかわいそうな存在で、おばさんはその猫たちをかわいそうだなとじっと見ているのでした。
食べ物をあげるとか、撫でてみるとかはしません。
ただ猫を見るとかわいそうだと思うのです。
おばさんは言います。

人よりもずっとちいさくて、それなのにこんなコンクリートのがらくたみたいな町で暮らしていかなきゃならないなんて、本当にかわいそうだ、車にも乗れないし、栄養のあるものだって食べられてないよ、きっと。

ネズミはもっとちいさいよ。
ぼくは言いました。

嫌だ、ネズミなんて。ちっともかわいそうじゃない。

好き嫌いがはっきりしているところに、ぼくは好感を抱いていました。
おばさんはお客さんに対しても好みがはっきりしていて、好ましくないお客には沈黙を通します。その人が店を出ていくと、その人の良くないところについて、話しはじめます。へえ、おばさんはそんなところを見ていたのかとぼくにはない視点を知り、感心することが多かったのです。

いまのひと、入ってくるなりメガネを拭いたでしょ。ああいうことするひとはだめね。メガネを拭くなんてこと、ひとがものを食べるところですることじゃないでしょ。お金を渡すときのやり方もね、雑だったでしょ。全部に出るのよ、その人間の質が。

ある日、お昼の時間帯を少し過ぎた頃、まだやってる?と顔を出すと、どうぞと迎えてくれました。
おばさんとぼくだけでした。
いつものように話しながら食べていると、ひとりのおじさんがやってきました。
おばさんの対応から、この通りでお店を経営しているひとなのだなということがわかりました。横目で見ると、なんとも複雑な顔をしている人で、かなしいような、さびしいような、疲れたような、怖いような、やさしいような。
おばさんは適切な距離を保つことを意識しているようで、言葉遣い、声の出し方もいつものようではありません。
さっさと食べて、出よう、とぼくは思いました。
と、いきなり、おじさんに話しかけられたのです。
あなた、なにやってるひと?
その頃のぼくがやっていたことは、先にも書いた通り、舞台を作ることでした。頭の中にはそれしかなかったので、そのことを話しました。
まずは、表面的なことを話しました。
すると、おじさんはもっと詳しく聞かせてくれというので、もっと詳しく話しました。
やりがいについて、いまはできないけれどどんなことがしたいか、うまくいかないところ、なぜそれをやっているのか。
それで、あなたは、成功すると思ってるの?
成功?
うん、あなたの成功はどこにあるの?

いったい、どこにあるのだろう。
お客さんがたくさん来てくれたら成功なのか、お金がたくさん貰えたら成功なのか、ぼくにとっての成功について、真剣に考えたことはありませんでした。

作ったものに、満足できたら成功なのかもしれないけど、成功する気はないかもしれない。

そんなふうに答えたのでした。
すると、おじさんは笑って、成功する気がなくてやることはみんな中途半端に終わるものだと言いました。
おじさんはどうやって店を持ち、増やし、維持しているかの話をはじめました。なにを考え、なにを捨て、なにを選んできたか。
話を聞いていると、おじさんは望んでいたこととは違う場所にたどり着いているようなのでした。そのことは、おじさん自身もよく承知しているのでしょう。

成功したんですか?
ぼくは聞きました。

すると、おじさんは言いました。
そう思いたいね。

話しすぎたというように、突然立ち上がり、おじさんはおばさんにお金を渡して出ていこうとしました。払った金額とおつりからして、ぼくの分まで払っていることに気がついたぼくは慌てて断りました。借りを作ったら後々厄介なことになるのではと思ったからです。
おじさんは振り返らずに行ってしまいました。
おばさんは、ぼくの考えていることはお見通しのようで、あの人は心配いらないよ、どこかで行き合ったらちゃんとお礼を言うんだよ、と言いました。

それっきり、おじさんに行き合うことはありませんでした。

おじさんがぼくにしてくれたことを、まだぼくは誰にもしたことがありません。

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