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エッセイ/ぶっそう

誰かが、お手柄顔で「悪い人」をSNSで晒す。インフルエンサーなる人たちは、したり顔で「悪い人」を拡散する。晒された「悪い人」は、苛烈な社会制裁を受ける。
そのような世の中のようだ。

もちろんそもそもは、(当該案件が事実なら)「悪い人」が悪いのだが、「悪い人」なんてのは古今東西、絶えたためしがない。
であれば、リーク・拡散という末期情報時代の動きのみが、現代的と言える。

どのような正当化や大義名分で飾ろうと、こういうのを、私刑と呼び、リンチ、と読みがなを振る。

私刑を否定する判断の根拠は明確であり、日本国憲法31条には法の適正手続 due process 規定が定められている。

少なからぬ良識人が、静かにこの軽躁で狂騒な世相を苦々しく思っているはずだが、どの時代にも衆寡敵せず、んぬるかな。
その手の記事にわらわらと群がる迎合のコメントを見れば分かるのは、つまり、一皮むけば、いかに多くの mob が、歪んだ正義感に酔い、心の底で強大な権力を欲しているか、という、まああられもない現実だ。

いま、迎合のコメントを見れば、と書いたとおり、ぼくもまた、その手の記事を読む mean mob のひとりである。
ときに、率直にグッジョブと胸がすくこともあるし、胸糞悪い思いで、ため息とともにタブを閉じることも多い。うーん、とその感想に困るときもある。

私刑が憲法に違反する、などと大見得を切ったところで、当のこの国が、憲法違反すれすれのアクロバット飛行で成立している。それとこれとは、などと水掛け論をするのが、一番きらいだ。
どっちもどっちなら、両成敗という名の超法規的措置むざいほうめんを決め込むほかないだろう。

どちらかといえば、冷めた目で玉石混淆のその手の記事を眺めながら、ぼくは計っている。
ひとつは、記事の有用性や緊急性を。
そしてもうひとつは、ぼく自身の内在的な判断基準の在り処を。

そこに上げられた「悪い」行為により、失われた、あるいは失われつつある私人の法益のみが、リークの許容性の試金石だ、と考えている。
裏を返せば、いかに下劣で卑怯で非道徳的な行いであっても、その行いが損ないうる法益に照らして、私刑による制裁が大きすぎるならば、晒すべきではない。
べきではない、のだけれど。

そして、メディア冤罪の恐ろしさを、ぼくは思春期の「松本サリン事件」で骨身に叩きこんだ。私人逮捕の要件に現行犯規定があるのは、私人には冤罪のとがを背負うことができないからだ。
ぼくは確証もなく、誰かを私刑の地獄へ追い落として、垢消しで知らん顔して生きてゆける、そのことが、ぼくには一番恐ろしい。

何より強く、ぼくが感じるのは、これだけ多くの人が、「悪い人」に対してどす黒い憎しみを抱き、機会があれば断罪してやろう、と手ぐすねを引いていることへの、何とも言えない感慨だ。
実に、何とも言えない。
それは元をたどれば、純粋な正義感の発露であろうから、ぼくたちは道徳的に真面目である。
また、おめでたくも、己を絶対正義なりと措定するのだろうから、ぼくたちは倫理的に幼稚である。
倫理的に幼稚で、道徳的に真面目な市民モブから構成される社会――ぼくは、その姿に、ひどく鳥肌が立つのだけど。

ここまで責任を伴わない言論が生まれたのは、ごく最近の現象である。むろん、それは21世紀、ディジタル掲示板とSNSの産物だ。

匿名であれば、失言、誤発信、デマの拡散、どれも垢消し逃亡など、枚挙にいとまがない。残るのは、皮膚のみが剥がされたタトゥーであり、いかに悪質な事案であっても、どこかで脈々と生き残る。

抽象して書くのに、疲れた。
ここからは、回転寿司屋さんで、不衛生な狼藉に及んだ例の子どもを念頭に書くことにする。

いったい、ぼくらは何をどうしたくて、かくも大上段から、怒りの鉄槌を振るのだろう。

ある地域のある店舗で、ある子どもが共有備品を舐め、回る寿司に唾をつけた。それを動画で撮り、SNSに上げた。拡散され、子どもの正体が明かされた。

多くの mob が怒る、あるいは怒りを演じる。巧妙に犯人をつき止める、多くの mob が本人の謝罪を期待する。退学になれ、損害賠償で一生苦しめ、家族も不幸になれ、ここまで来れば、一種の狂気は明らかだ。
いい子ぶるのではなく、ぼくにはその手の狂気は、合わないのだ。

この駄文を読んでいるあなたは、回転寿司屋さんで、醤油差しや湯呑みを舐め回そうと思うだろうか。他人が食べるであろう寿司に、唾をつけたいと希うだろうか。
ぼくは一瞬も考えたことがないし、この貧しい想像力では、どうしても追いつけない地点である。

この子どもを罵詈雑言で追い込み、謝罪を強い、mob たちが溜飲を下げ、次の案件へ飛び移ったところで、ぼくにとっては、何ひとつ落着していない。

ところで、2021年の統計によれば、飲酒運転による死亡事故は152件、飲酒運転検挙数は19,801件である。もちろん、潜在的な飲酒運転者数は不明だが、これよりはるかに多いはずだ。
ぼくは、やむにやまれぬ傷害、殺人はあると思っている。やむにやまれぬ天災があるように。
だが、やむにやまれぬ飲酒運転というものを、どうしても想像できない。しなくてもよいこと、避けうる不善だ。
だが、人はやる。それも一人や二人の話ではなく、少なく見積って数万人、おそらく数十万人のドライヴァーが、やっている。

このようなありふれた狂気でさえ、ぼくには分からないのだ。
彼らは言う、これくらいの量なら大丈夫だと思った、抜けてると思った、近距離だからいいと思った、他に移動手段がなかった、飲んでない、などなど。
なるほど、利の無い不善を為す人は、そのように・・・・・物事を運ぶものなのだな、と、ぼくは当事者でないのをよいことに、淡々と学んでいる。

ただ、知りたい。
何をどのように進めば、寿司屋のもろもろに唾液をつけたい子どもが生まれるのか、それを撮影して周りに見せつけたい子どもが生まれるのか。
彼とてさすがに、それを善行と思ってはいないだろう。まず確実に「イキった」のだろう。なぜイキったのか。「勇気」を誇示する内的外的な必然性があったのかもしれない。では、なぜその愚行を「勇気」の証と誤認したか。それは文化的マターなのか、それとも語の誤用に由るものか。かつて、煙草の火を二の腕に押し付けた根性焼きの痕を、何度も見せられたことがある。ツチノコを見るような気分だったが、当人は誇らしげであった。その地域の「勇気」なのだそうだ。痛いのは当人であり、こちらは別に構わない。また、港で単車のチキンレースをする奴らに連れられたこともある。「勇気」を試すのだそうだ。この「勇気」は、騒音と迷惑のリスクの分だけ、根性焼きより劣ると思った。ともあれ、この類の「勇気」はたしかに、ある層の人々の誉れのようだ。いや、ぼくだって、小学校の低学年のころに、近所でピンポンダッシュをしたものだ。あれは、今は忘却の彼方だが、やはり「勇気」の試練だったのだろうか。笑いが止まらなかったのは覚えているから、独特の楽しさがあったのかもしれない。

など、推量は止まらないのだが、なにもつれづれに当て推量がしたいわけではない。
当人から、なぜ・・それをやったのか、その仔細を適切に徹底的に聞き出せるのならば、それがすべてだ。

愚行の根に、ある動機や事情があり、ぼくらがゆくゆく、その愚行を減らし、無くしたいと願うなら、そんな愚行はよくない、やってはならない、と何万回も無意味なアナウンスをするより、動機の形成を「飛ばす」術を、事情を解消する術を探った方が、はるかに有意で効果的ではなかろうか、と思うのだ。

落ちた犬を容赦なく叩く人ってのは、「悪い人」より、はたして悪くないのだろうか。

きりがない。
どちらにしても、今日もまた mob は、頑なな善意と全能感と buzz という射倖心を胸に、誰かの不善を暴きたてる。あまり品がよろしくない、など、通じなさそうだ。

パンドラの箱という寓喩は、つくづく、よくできている。


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