しりんは書かない
わたしが しりん として書かなくなり、3年? 4年?
書くことは(少なくともいまは)わたしの身体の一部でなくなった。つまり、しりんは今、わたしの一部ではなない。かつてわたしの近しい場所にいた面白い書く人のひとりだ。
書くことは強い向精神薬である。
存在の欠落感、命の不均衡を癒す術として書く、そのことによってなお生じる存在の欠落感、命の不均衡を癒す術としてなお書く、出すと出さざるとにかかわらず、書く人の生活とは「書く」を絶えず注入し摂取しなおも希求する生活だ。
どのように書こうとも、書くことは書かれる対象だけのものではありえない。
書かれたその分だけ書く主体を照射する。
主体は恣意的に対象を見据え、豊富な語彙を漁りその内から的確な或ることばを選ぶ、選ぶ「と信じている」。
だが常に、主体はことばを選ばされているだけ、ことばに選ばれているだけだ。
躍起になって鏡を磨くことは、鏡のこちら側に何らの変化をもたらさない。
日がな鏡を磨く滑稽なこちら側の姿もまた、遠慮のない鏡は遠慮なく映していた。
こころ(? こころ?? こころ???)に違和感を覚えるひとに、わたしはそれでも向精神薬の試用を勧めることもあるだろうし、書くことを勧めることもあろう。
一切の不快はそもそも要らぬ。だが外界からは容赦なく不快の石つぶてが飛んでくる、窓を閉めようと布団を引っ被ろうと。
一切の不快は要らぬ。
一切の不快は要らぬ。
*
わたしが長らく書きたかったのは、ことば自体が素材として輝きそれがいっさいわたしを反映しないようなものであった。
わたしはそこに到達できず、そもそもそれがどういう事象なのかさえ、結局わたしには分からなかった。
わたしが――たとえことばの代理人としてであれ――完全に消える、消えながらも紡ぐ、紡ぎつづける、そんなことは無理筋なのに。
二律背反のハリネズミを志向した。
なぜだか事はそのようでしか在りえなかったし、もちろん、わたしのその在り方は逆説的に、意図とは真反対に、わたしを強烈に照射してしまうのだ。
だから、わたしにとって書くことに向きあう時間は、苦しさそのものであった。
あまりに壮大で茫漠としていた。だからわたしが苦しむ(それは常態なのだが)だけであった。
一切の不快は要らぬ。
一切の不快は要らぬ。
*
いつからか、そのような壮大で茫漠としたことばの気配は、遠ざかり、消えてしまった。少なくとも、わたしを除いたわたしのまわりから。
かつてそれがいた場所の多くには、矮小で窮屈な主張文が棲みついた。
先住者のわたしが、ここ(どこだろう?)はわたしの住む場所ではないのかもしれないと感じ始めた。
正しいも間違っているもない、そんなことは承知なのに、わたしは間違っているのかもしれない、怯えるようになった。
わたしはそこまでして書きたかったのであろうか?
ことばはそこまでして書かれたかったのであろうか?
わたしは少しの間、冷まそうと思った。
冷ましている間に、わたしは冷え切りことばは凍りついた。
かつては泉かと思われたわたしの思いは、けあらしのように霧消したようだ。
つまりそれは泉ではなかった。
*
嘘つけ。
嘘つけよ。
わたしはね、面倒くさくなったのだよ。
年も怠惰も病気もコロナも、何もかもが原因だ。
余生はひとり『氷鬼』したまま過ごそう、とただふてくされているのだ。
溶けたらいいさ、溶けなくともいいさ。