Colloquial
苦しみってこじらせると、いざ壊れる、相談しなきゃ、ってなったときに、しかるべき聴き手がどこにもいなくなる。だから、そのモヤモヤがほんとに苦しみなのかどうか、微妙なくらいのうちに、お酒かなんかのさ、わたし飲めないからいつもコーヒーなんだけど、なにかの勢いではき出してしまうのがいいよね。あなたは有能な投手。捕手が捕りやすいボールを投げるのはよいことだけど、なにも、彼の手の痛みまで慮ることはないんだ。いやいや、相談相手は捕手ではないし、これは職業野球ではないのだもの、やっぱりつらい思いはさせたくない。一番の方法は、けっきょく、わたし自身で解決して、解消して。もちろん、その気持ちはすごくよくわかる、だから誰にも話さない、できるだけ。それは一種の『賭け』になる、それはあなたにも、すごく分かりそうです。モヤモヤのうちに、ぷちっとつぶして、なにも問題ないときもたくさんあるし、うまくいかなくてどうにもならないこともある。あなた気づいていますか、わたしのモヤモヤを、ほらこうやって、いつだって真摯に聴いてくれて、いやほんとうのことです、ありがとう。だから、きっとわたしはいま、ここにこうやっていられる。塀のむこうでも、お空のむこうでもなくて。なのに、あなたは、もちろん責める気などないんだ、そんなわたしの、ということはきっと他のいろんな人たちの、ささいな手の痛みにまで、いつもこころを配ってくれる。そういえば、こうやってコーヒー飲みながら、わたしの下らない、いやいや、ほんとうに下らないよ、そんなモヤモヤに耳を傾けてくれるとき、あなたの手は、痛んだかしら。痛んでいたなら、ほんとうに申し訳ない。うん、よかった、もしそうでないなら、つまりわたしはこうやって、ちょっと偉そうな言い方かもしれないけど、わたしをささやかにすくうのと同時に、たぶんあなたもささやかにすくっているんだと思う。わたしのモヤモヤが新芽から大樹になって、わたしの手に負えなくなったら、わたしはきっとあなたに相談できない。それは、あなたがそれを選択するのとおんなじで、それはたぶん、手の痛みどころじゃ、もうすまないのだもの。だれにも、どうにもできないのかもしれない、あの時みたいに。あなたはきっと、そうなってしまったこと自体を、ひどく自責する。そんなのさ、それこそ、だれひとりすくわれない。わたし、それなりにだいぶ練習しました、ひとの手の痛みに気づかない練習、とか、わたしの30分と人の30分とは、なんにも変わらないんだ、って図太く割り込んでいく練習とか、はじめのうちはやりながら、こういう鈍感なふるまいに、わたしはきっとたえられないと信じてた。ね、うんうん、まさにそういうものを、こそ、ことばはきついかもしれないけど、憎んだり、軽蔑したり。そうやって、突きつめれば、この手の「おもいやり」はなりたってるんじゃないか、と、だいぶ経ってからだけど、ふと分かったんです。分かったというか、ちょうどそのころね、やんなきゃいけなくて『自己分析』とかをよくやっていたんだけど、わたし、気づいたら、好きなものがなんにもなかった。趣味も、ストレス解消法も、自分の長所も、やりたくないこととか、人や自分の厭なところなら、いくらでもすらすらと挙げられるのに。
ごめん、ちょっとお手洗い……
お待たせ、わたしね、話のスイッチが入ると、ちゃんと線路を進んでんのか、ぜんぜん脱線しちゃってるのか、わからなくなるの。大丈夫かな、ってトイレに座って、天井見て、うんうん、今日はたぶん大丈夫っぽい。自分ではかけがえのない「優しさ」とか「配慮」とか「思いやり」とか、大事にぎゅっと抱きしめてたものが、なぜか根っこでは、嫌悪とか悪意の大きなかたまりに支えられてるんじゃないかって直感して。めっちゃ気持ち悪くなった。ふっと、ソクラテスのほら、無知の知ってなんか、論理とかのことでしょ、って知らん顔してたら、いやーな人間像にも当てはまります、あんたは自分がいやーな人間だってことさえ、ちっとも気づいてない、ほらほら、って。それでまた、しばらくものすごい自己嫌悪したんだけど。でもまた時間が経ってみたら、なんだ、単にどっちもどっち、五十歩百歩じゃん、て気持ちが軽くなって、うん。めっちゃ話、長くなった。ごめんね。本当はなかなか、わたしもうまく勢いではき出せないから、こんなことばっかりうじうじ、考えたり悩んだり、今回のはさすがに、モヤモヤのままでつぶせるんじゃないかって油断したり、ねえ、骨盤矯正みたいに、日々のふるまいをコキコキッ、って戻してくれるとこ、あればいいのにね。あーほらほら、また歪んじゃってえ、ぺきぺきっ、とか言われながら。
よし、そろそろ行こうか、キャッチボール!暗くならないうちに。
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