なるべく簡単に「日本銀行が利上げしない理由」を整理してみた
はじめに
日米欧の金融政策、とりわけ「金利政策」に対する方針を見比べてみると、本記事執筆時点で概ね以下のようになっています。
米欧:利上げ
日本:ゼロ金利の維持
その結果、日本円と米ドル・ユーロ間の金利差拡大から円安が進行しています。金利が高い通貨の価値は金利の低い通貨に比べて相対的に価値があるからです。ここ数十年単位で見ても歴史的な円安水準です。
さて、それに対して「なぜ日銀は政策金利を引上げないのか?」という批判が言われています。というのも、食糧やエネルギーを輸入に依存する日本において、円安は「輸入物価の上昇」につながり、庶民の生活にダイレクトに効いてくるからです。米欧と同様に利上げを行わなければ、日本だけが通貨安に伴う物価上昇、やがては庶民の生活の更なる困窮を招くという論調です。その考えについては一理あります。
しかし、では「そもそもなぜ米欧は急速に利上げを行わなければならないのか?」を考えることで、日本においてはその論理が当てはまらない=利上げの理由がない事がわかります。
米欧の利上げの背景
2020年~2021年、米欧はコロナ禍に伴う経済的なダメージを強く受けました。都市封鎖(ロックダウン)を強行し、経済活動の引き締めを継続してきました。勿論、日本だって「まん延防止等重点措置・緊急事態宣言」による経済活動の停滞はありましたが、それは米欧に比べると、深刻度合いはまだマシな方でした。
今年に入り、ロックダウンを始めとした様々な経済活動・消費行動の強制的な抑圧から一点、米欧においては「マスク不要」も含めた大幅な行動緩和に舵を切り、経済優先の姿勢を鮮明にしています。その結果として、かつて無いほどの消費欲求が爆発しています。人々の消費欲求を定量的に示す指数としてよく用いられるのが「消費者物価指数(CPI)」というやつです。例えば米CPIの推移は今年に入って前年同期比で7~8%代を推移しており、歴史的に見ても異様なインフレを継続しています。
FRBのパウエル議長は、昨年末に「一時的なインフレ」としていたFRBの見解を完全撤回し、年明け以降、量的緩和の縮小(テーパリング)から早々に量的引き締め、政策金利の引上げへと、その金融政策の方針を怒涛の180度転換させました。
さて、一時は「一時的」とされたものの、その後表現が撤回された「異様な物価高騰の継続」は何が原因でしょうか?それはひとえに「抑圧されていた消費マインドの爆発」による所が大きいでしょう。他方、サプライチェーン全体で見た場合は中国のゼロコロナ政策、東南アジアのロックダウン・工場閉鎖から、その旺盛な需要を満たす供給が足りない状況が、異様な物価高騰に繋がっていきます。それにさらなる拍車をかけるのがロシアによるウクライナへの軍事侵攻に端を発した、更なるサプライチェーンの混乱、エネルギー価格の高騰です。
とにかく需要が爆発的に活況を呈しているのに供給が追いつかない。だから物価はどんどん上がる。庶民は困る。なので、経済の熱を冷ます施策としての「政策金利の引上げ」をFRBは選択しました。物の値段が上がり続ける場合、通貨の価値は相対的に落ちます。借金して物を買った方が良いわけです。よって、政策金利を引上げる事で借金しにくくなる、追って物価上昇も止まるというのが極めて伝統的な中央銀行による金利政策です。
ヨーロッパにおいてもアメリカを追う事ここ数ヶ月の間に、金融緩和から金融引締めに政策を転換しました。
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、ヨーロッパ経済における供給側(サプライサイド)に対して大打撃を与えます。2021年時点で、EUの天然ガス・石油・石炭におけるロシア依存度は、それぞれ40%・25%・45%でした。
EUはロシアに対する経済制裁に伴い、エネルギーサプライに大きな制約を抱えることになり、結果として物価の上昇につながっています。当たり前ですが、エネルギー価格の上昇はあらゆる物・サービスの値段の上昇につながります。EU域内の平均的なCPIも8%を超える記録的な物価高騰を示しています。
さて、ここまで米欧が利上げに踏み切った理由を見てみると、コロナからの回復に伴う需要の爆発、しかしそれに追いつかないサプライチェーンの問題やロシア・ウクライナ問題に起因する「供給力不足」に端を発した物価高騰、これがその背景にあるわけです。
日本は供給力不足なのか?
さて、日本においてもエネルギー価格の高騰、サプライチェーン混乱の余波を受けた物価の上昇は当然数値に現れてきます。また、米欧との金利差からくる円安も、円換算した場合の輸入物資の価格を押し上げます。しかし、日本は欧米と決定的に異なる前提を持っています。それは需給ギャップです。
国内総生産(GDP)は、ざっくり言うと国内で生み出されたあらゆる付加価値の総和(≒儲け)のことです。そして、誰かの儲けはだれかの需要の裏打ちによって成立しますよね?つまりGDPは国内総需要とも読み替える事ができます。
GDPについてはめちゃくちゃ簡便化して以下の記事でも示しています。
対して供給力とは、国内のあらゆる生産能力・労働力の総和になります。ここでも単純な需要と供給の論理が適用できるわけで、要は国内総需要が供給力を上回ればインフレ・投資の促進、すなわち経済成長へとつながるわけです。逆に供給力に対して需要が弱ければ、物・サービスの値段は上がらず、新たな設備投資も雇用創出にもつながりません。この後者における需給の差(ギャップ)を「需給ギャップ」とか「GDPギャップ」と言います。
日本においては、これはコロナ禍だとかロシア・ウクライナ問題だとかいう以前から、この需給ギャップが継続的に存在しています。
これはバブル崩壊前後から2005年くらいまでのGDPギャップの推移(内閣府発表)になりますが、ほぼずっとマイナスです。
いわゆる「失われた10年」というやつですね。これが20年、30年と来て今に至るわけですが、2021年度第4四半期(2022年1月~3月)のGDPギャップのマイナスは、ここまで10四半期連続のマイナスです。
同時期にアメリカでは「インフレは一時的では無い、継続的な物価高騰と考えざるを得ない」と言っているのですよ?日本はその間ずっと「需要が供給に比べて弱いですね」となっているわけですから、物価上昇の影響は限定的になるのも当たり前です。繰り返しになりますが、サプライチェーンの問題、ロシア・ウクライナ問題の煽りを受けた物価上昇は日本でも起きています。しかし、米欧と根本的に異なるのは「強い需要が無い」ことです。もっと正確に言うと「ずっと無い」でしょうか。事実、これは今年5月時点での物価上昇率の年率見通しですが、G7で日本だけが頭一つ低い水準です。
日本だけ1%って逆にすごいですね。昨今のアメリカ・バイデン政権に対する支持率低迷の主たる原因は「物価高騰を抑えきれていない」という批判だとされていますが、バイデンさんも岸田さんを羨ましいとすら思っているのではないでしょうか…笑
(勿論、冗談)
じゃあ「日本は物価上昇率が低く抑えられていていいね!」となるわけもなく、そもそも、日本のバブル崩壊後の経済における構造的な課題としての「供給力に見合う強い需要が無い」状態は、イノベーションも生み出さなければ雇用の創出にもつながらない、だれにとっても好ましい状況ではありません。
日銀が金利を上げる前提
日本と米欧の中央銀行の金融政策、とりわけ金利政策について、その前提が大きく異なる状況である事がわかりました。日銀が利上げをする為には「強い需要の回復が為された」という判断が大前提でしょう。需要が供給に見合わない弱さの中、利上げなぞしようもんなら泣きっ面に蜂なわけです。金利政策で円高誘導が仮に適ったとして、それは全世界的なエネルギー・食糧価格の高騰の原因に対する対処としてはいささかの効果も期待できないでしょう。それどころか更なる需要の縮小を招きかねない、愚策になりかねません。
さいごに
そんなわけで、日銀・黒田総裁が頑なに「利上げはしない、日本はその域に達していない」と言う理由が整理できたかと思います。個人的には、黒田総裁はもう少しこういう丁寧でフレンドリーな説明をしてほしいな、と思っています。”家計の値上げ許容度”発言で叩かれていましたが、この言葉自体は経済学おける極めて学術的な用語・表現であって、それすなわち「一般庶民は値上げに対して寛容になっている」を意味するわけではありません。ただ、そういう学術用語ベースで発信されても、何を言っているのかわからない人も多いと思うんですよね。叩かれるのだって黒田総裁自身も意図するところでは無いと思うわけで。
結論として、しばらくは世界的な物価上昇は続きそうですので、個々人でなんとか耐えるしかないとは思いつつ、政府に対しては、生活困窮者にフォーカスした手当の一層の拡充を期待したいところです。
おわり