褒め言葉
きっと馬鹿だと思われている。
褒めれば私の動きが矯正されるとでも思っているのかもしれない。
「いやー、さすがベテランの知恵ですね」
オンラインの会議の始め、私を年下の上司が褒めるときは、当人にとって都合のいい動きを私が見せた時だけだった。
彼は先ほどの打ち合わせで他部署からのデジタル関連の質問に答えを窮していた。私が過去の知見があったので、肩代わりして答えてあげたのだ。
仮にも今の部署のマネージャーのポジションに就くなら、そのくらいの質問には自分で答えてくれ、と正直思う。
「いやー、藤原さんの知見の深さにはいつも助けられます」
そうやって私の知識を調法がるくせに、熱を入れてきた新規開発のプロジェクトを「なんの利益になるの?」と一蹴されたことを私は忘れていない。
「こんなんじゃ、役員に報告できませんよ」
都合の悪いことはすぐそうやって上を免罪符に切り捨てるのだ。
自分に技術者としてのバックグラウンドがないからって、デジタルが絡む企画は全て最初の報告で一蹴された。
私を追い込もうとしている。自分が管理監督できる範囲に。
グループの会議時間を過ぎた。たまたま先ほどの会議が早めに終わり、私と彼は会議の5分前くらいから先にzoomに入室していた。
今の時刻は、14時2分。グループミーティングの定刻を過ぎて、既に他の参加者も揃っていた。
しかしその打算的な賞賛は続いた。私との友好をグループ員にアピールするだめであろう。みんなも鼻白んでいるに違いない。
役員を免罪符にする彼を批判している自分の主語にも「みんな」が出てきたことに、バツの悪い気持ちになった。
自分がムカついたとシンプルに感じればいいのに、イライラの主体を「みんな」に押し付け彼を否定している。
自分だって同じだ。
自らの愚かさに意識を集めると、彼の罪状は一気に私の中で軽くなった。
そして彼の打算的な賞賛にガッカリしているのも、他人に気持ちよく褒められたいと子供じみた感情を私が勝手に抱いて、それ裏切られた反動だろう。
だからかな。
私は自己否定する時には、加えて自分の半生で生じた不具合にその特性を結びつける癖があった。
今回も子供じみた承認欲求と今までの人生で生じた過失を無差別に結びつけ、静かに自分を恥じていた。