手札
今日店長は新しいカードを切ってきた。
本気モードというか、怖い一面を見た。
2回生までやってた塾講師を辞めて、今月からシフトの融通が効きやすい飲食店でバイトを始めた。店長は先輩たちが「鬼」と言っているほど、怖くはないと思っていた。
キッチンは通常三人で回しているが、客足が落ちついてくる2時くらいから順番に休憩をとる。店長と自分と他に2年くらい務めているらしい先輩が今日は出勤していて、先ほど先輩が休憩に出た。
「ほら、ちゃっちゃと皿洗わんと」
狭いキッチンに二人きりになったときに、軽く注意を受けただけ。
別に怒鳴られたわけじゃないけど、喉がつっかえて窮屈になり声が出にくい。
「すいません。すぐやります」
ずっと流れていた有線の音楽が、急に遠くに感じられた。
さっきまで割と心地よく聞いていたのに。
洗い場を雑に指差す仕草や、合わない目線や、半笑いで発せられた乾燥した言葉が急に緊張感を漂わせる。
昨日シフトに入った時はニコニコ新人扱いだったのに。
"一人前として手加減なしで接してくれているんだ"と思うと、嬉しいより辞めてくれという気持ちの方が大きかった。
焦りながら皿を洗っていると
「もうちょっと静かに出来へんか?」
とまた小馬鹿にされたように注意された。そんなにうるさかったかな。
単純に今日は機嫌が悪いのかもしれない。
これから、自分の仕事のやりやすさや居心地の良さはこの人の機嫌に左右されるんだなと思うと憂鬱になった。後何枚この人はまだ見せていない凶暴な面や、理不尽な面を持っているのだろうか。その全ての札に慣れていかなければいけない。
別に、暴力を受けたり無理な仕事を依頼されているわけでもない。
でもイライラしている人が近くにいるだけで、すごく緊張して肩が凝った。
まあ、でもそれって職場にいる時だけじゃなくて誰かといる時間はずっとそうじゃん。と気がついてさらに気が滅入った。
泡の混じった水が排水溝に流れていくのを見つめて、このまま一緒に吸い込まれたい気がした。
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