幕さえ上がれば
「あるじゃん?お店についたら、お腹空くかもしれないなーっていう。そういうノリだったわけ」
恋人として僕を選んだことをそう振り返る、吉野さんの声のトーンは別れ話に相応しくない朗らかさだった。
「でも結局お腹空かなかったままだった」
例え話しのまま、僕とこれ以上付き合えないことを告げる。
この半年、けっこうお互いの時間を共有したけれど、吉野さんの胃袋を刺激する何かを僕は自分の中から発することは出来なかったみたいだ。
吉野さんは、25才で大学時代から付き合った彼氏と別れて、そこから3年恋人はいなかった。
2年後輩の僕は職場に綺麗な人がいるなとずっと思っていた。飲み会で吉野さんが恋人と別れたことを後輩女子にイジられているのを聞いて、こっそり喜んだりしていた。
それから3回食事に誘っても告白できなかった。
4回目に誘ったときに、「ねぇ、どうしたいの?」と返事が来て、弁解するように気持ちを伝えたのだった。
受け入れてもらえて、現実感がなかったけど、それから吉野さんとの交際が始まった。
この半年の順調すぎる会話とか、休日出かける先で意見が割れないことや、吉野さんの悪い面がちっとも増えていかないことを、もっと不思議に思うべきだった。
馬鹿な自分は吉野さんがてっきり自分にぴったりの人だからで、交際は順調だと安心しきっていた。
まさか始まってもなかったとは。
好きになってもらえないことと、好きって思える人ができないこと。どっちが苦しいだろうか。
「楽しくなかっですか」
「楽しかったよ。でも、ごめん。予想通り、楽しかっただけって感じだった。ハジメくんの幕が上がっても、印象が変わらなくて。せめてちょっとガッカリさせてくれたらなぁ」
藤野さんの気持ちが分からないので、例えもよく分からない。
でも嫌われないことが、好きに繋がるわけではないんだなぁ。好きは、嫌いから一目散に遠ざかった先にあるわけではなくて、もっと別のどこか違うところにあるらしい。ということはわかった。
「じゃあね。また会社で」
「はーい」と自分でもびっくりするくらい自然な返事ができた。
きっと僕と吉野さんは会社で気まずくなることすらないだろう。
周りに気を遣わせたり、陰で悪口を言われたり、吉野さんの友人から恨み言を言われたり。そんなことすら起きないだろう。
1人残されたカフェで「なんだよ幕って。それにもう一枚くらい幕が上がったら俺だって意外な一面がどんどんさぁ、、」と思いながら、お店のメニューの中で一番上に載っているブレンドコーヒーを啜っていることに気がついて、残りを飲み干してすぐに店を出た。「いつもより苦い気がした」と自分に述べたありきたりな感想が、本当は嘘だし、作り物っぽくで今日は気持ち悪かった。