観劇雑感 TGR2024 劇団 風蝕異人街「メディア」
観劇後のX。
「ギリシャ悲劇は神々と人間の連続性、社会性の創造、善悪では語り切れない人間性の発露がある。札幌では唯一、と言っていい舞台。」
2024年11月9日(土)14:00~ シアターZOO 劇団 風蝕異人街
「メディア」
~~ フライヤーより ~~
イオルコスの夫イアソンは、叔父ぺリアルに王位返還の条件として、コルキスから黄金の羊の毛皮を持ち帰ることを命じられる。コルキスの王女メディアに助けられて、それを成し遂げるが、べリアスは王位を譲らなかった。メディアはぺリアスの娘たちを騙して父親を殺害させ、その罪でイアソンとメディアはコリントスに亡命する。
子どもに恵まれ、幸せな生活をしていたが、ある日、コリントスの王クレオンがイアソンを娘婿にと望む。地位と名誉、花嫁の若さと美しさに目がくらんだイアソンは縁談を承諾。イアソンの心変わりを嘆くメディアに、クレオンは子どもと共に追放の命令を下す。メディアは復讐を心に誓う。復讐の化身となったメディアは・・・。
【出演】
メディア 三木美智代
イアソン 川口巧海/渡沢陽人
クレオン ポロミン
アイゲウス 川口巧海/渡沢陽人
乳母 太田有香
守役 川口巧海/渡沢陽人
使いの者 ポロミン
子供たち 城崎千歌、岡崎友美
コリントスの女たち 太田有香、赤間蘭奢、トマト、草乃あかり、城崎千歌、岡崎友美
ジャンベ演奏 鼓代弥生
【演出・美術】こしばきこう 【照明】こしばきこう、久井律子 【音響オペレーター】中村昭人 【宣伝動画制作】こいけるり 【舞台写真】野澤よしひろ 【動画撮影】「Ars.Rec」園部一也 【メディアボディペイント】鼓代弥生 【スタッフ】こいけるり、平野たかし、後藤由佳里、久保龍二、ノザワリンカ
~~ 雑感 ~~
神々と人間の連続性
ギリシャ神話と聞くと、浮気性だったり嫉妬深かったり、自由気ままで残忍といった、人間の様々な面を凝縮したような存在の神々を描いた物語、との印象がある。神々だけではなく、神々の子孫として描かれた人間の様々な出来事も語り継がれているようであり、数多くの物語のひとつが「メディア」なのだろう、というイメージだけを持っている程度。知識がないのが僕の現状である。
それはともかく。
神々と人間がつながり、その残虐性が現代にもつながる不思議を体験した、というのが観劇後の最初の印象である。ギリシャ神話、ギリシャ悲劇、というものの印象や雑感を書こうとすると、その成り立ちや構成、全体像や体系を多少でも知ったほうがより理解が深まるというものであろう。
歴史を遡るほどに人の命が消えゆく出来事が多く記録されてはいないだろうか。自然と神々はイコールであり、人間は死と隣り合わせ、いや、神々も死と隣り合わせだったのだろう。
人知が積み重ねられて文明となり、弱肉強食から適者生存へ、さらに共存へと進み、人権や人間同士の価値観の多様性が生まれている。そうであるにもかかわらず、現代は、個人が他者の人権を踏みにじり、聞くに堪えない悲劇が日々発生している。
ギリシャ悲劇と似た出来事は、現代もなお存在する。神々の世界から現代まで、絶えることなく続く悲劇は連続している。
芝居を牽引する「コリントスの女たち」
物語の主役は、自らと夫の幸せのためにその手を汚し、その夫の裏切りに子殺しで報復したメディアである。芝居はメディアのセリフで展開するのだが、移りうつろう状況を表現するのは「コリントスの女たち」だった。
台詞劇は、状況説明と展開説明と感情説明をセリフが担う。海外の作品を翻訳した場合、観客が感覚的に捉えられない事象を理解するために台詞を多用するように感じる。さらに古代の出来事となると、観客が飽きずに作品に引き込まれるような翻訳、潤色、演出、演技などのハードルがより一層増え、高くなる。今回の作品では、高く多いハードルを越えるうえで「コリントスの女たち」が活躍した。
複数の役者が同じ台詞を一斉に同時に話し、タイミングを合わせて同じ動作を行う。これはほかのどのキャストよりも大変だったと思う。
コロスの難しさを稽古で乗り越えて、芝居をけん引し担った「コリントスの女たち」に敬意を表したい。
妻メディアと夫イアソンの距離感
妻を捨てた夫と、夫に捨てられた妻の関係は、言い知れぬものが横たわる。嫉妬から憎悪、しおらしい姿を見せて夫に復讐を果たす妻。対して夫は、「男はかくも単純かつ身勝手なのか」と思う展開。目を伏せ、顔を覆いたくなる恥ずかしさを感じたのは、共鳴があるのだろうか。
今回、夫イアソンはダブルキャスト。観劇の回に演じたのは、渡沢陽人さんだった。欲に目がくらんで妻を裏切った理由を、キビキビとした動きで「若さゆえの身勝手さ」として演じていたように思う。獲物を狙いつつ、反撃を警戒するように舞台を移動するイアソンの動きは、妻との距離感というよりも三木さんとの距離感を図りかねる渡沢さんの動き、のようにも見えた。それだけ三木さんが演じたメディアは見事、ということでもある。
他方、イアソンの動きは緩急が少なく移動距離が長い、とも感じた。メディアとイアソンの年齢、人間関係はどのようなものだったのだろうか。僕の好みかもしれないが、動きを少し削り、より緩急とより二人の関係から生まれる感情を含んだ動きを観てみたい。
安定の川口巧海さん、存在感の三木美智代さん
表現者としての型があるのではなかろうか。そう思わせてくれる、川口さんの演技。ギリシャ悲劇だからというか、この芝居だからこその佇まい、身体表現を自然に用いていると感じる役者ぶりが、その舞台の安心感を生む。川口さんがその役割を担っているのではないだろうか。
「メディア」は、メディアの子殺しに向かう感情の振幅を、時間経過とともに観客に届けることが主眼となろう。三木美智代さんは、確立された演技と身体表現から存在感抜群であり、メディアそのものとして舞台上に存在した。そしてメディア自らが、自らを子殺しへと誘導していく姿を見事なまでに見せつけてくれた。
ふと考えたのは、昨年観た「嘘と鸚鵡と毛皮を着たヴィーナス」のお二人と、今年観た「メディア」のお二人の印象が同じように感じられることである。昨年の雑感を改めて見直すと、川口さんは形式美という点が共通していた。三木さんは演じた役柄は「復讐」にフォーカスしていることから同じ印象を持ったのだろうと思う。芝居のテーマが変わるとどうなるのだろうか。機会を捉えて拝見してみたい。
なお、昨年の「・・・毛皮を着たヴィーナス」の雑感を、僕はアップしていないようだ。
雑感として
ジャンベの音がトラディショナルの音と違うのが少し気になった。コリントスの女たちの呼吸音の大きさが耳に残った。イアソンのゴーグルが目についた。僕自身の経験や好みによるものなのだろうか。
メディアは、イアソンは、その後どうしたのだろう。観客が想像するほかに方法はないのだろう。悲劇的な結末の続きの観客の想像を、余韻と呼ぶには重い。この重さが、考える時間を与えてくれる。そこがたまらなくよいのだと、観劇直後よりも時間がたってから感じている。