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観劇雑感 TGR2024 劇団動物園「さよなら方舟」

観劇後のX。
「人を求め、人に与え、人と生きる。人を守りたいやさしさが足元に揺蕩う。」

2024年11月23日(土)~24日(日) シアターZOO 劇団動物園 2024札幌公演 「さよなら方舟」

~~ フライヤーより ~~

とある事情で久々の再会を果たす三姉妹。思いもよらぬ出会いが新たな事態を生むことに。25年前に書かれた本作は、ある家族に焦点を当てた物語。
「最も「私に勇気を与えるのが家族」「もっとも私を傷付けるのも家族」
三姉妹の辿り着いた地平は・・・

【出演】高橋 千尋、岡 歌織、大沼 伊都、柴田慎之介、梅津真里奈
【作】山岡 徳貴子
【演出】松本 大悟


それぞれの拠りどころ、それぞれの正義

三姉妹は分教会に生まれ、父の信仰の中に育った。次女は反発して出奔し、長女と三女は徐々に壊れていく父に寄り添い続けた。父が他界し、分教会は長女が継ぎ、三女はその長女を支えているようだ。そこに、熱心な女性信者が絡み合う。しばらくして、三女が連れてきた結婚相手は別な宗教の分教会を継ぐと言う。三女の結婚に長女は宗教上の理由から反対し、父が去ってから交流が再開した次女は気にせずに行けと言う。事情と事情が絡み合い、それぞれが信じる道を主張し、それを罵り、赦し、そして別れる。

軽くではあるが、ストーリーを辿るとこう書けようか。

信じるとは何か、生きるとは何か、繰り返される単純な作業に信仰を見出し、それは生きるうえで自分を自分たらしめる拠りどころとしている。そんな風景は、職場に通うことに疑問を抱かない社会人を投影しているようにも見える。故に、退職と同時に拠りどころを失う人間との同一性を感じてしまうのは、皮肉でしかない。
日本における主流と思われる宗教観とは一線を画す印象を、この芝居の宗教観に持つ方も多いと思う。しかし、私たちの行動を縛る、もしくは形作るものを思い浮かべた場合、この芝居から感じることがなにかあるのではないだろうか。何かにつけて仕事や職場を最優先と考える風潮。家族を顧みない、もしくは優先しない理由として「仕事だから」と納得している人々とその家族たち。仕事(ワーク)が先に来るワーク・ライフ・バランスの掛け声。公(おおやけ)とパブリックの混同、会社は「私」なのに「公」感覚が滲むのは、日本における共同の考え方からひも解くことができるのではないか。そして、共同、もしくは共同体にこそ正義があると考える点が、なんとも日本的なものではないか、と感じてしまう。

この先に話を進めると、本作の観劇雑感としての主題から逸れていく。そうしたことに考えが至るテーマ性を持った作品ではあるのだが。

想いあうやさしさ、思いあう狡さ

主人公は、一応は長女であろう。
父の遺志を継ぎ、分教会を継ぎ、家族を束ね、信者を束ねる(という人数ではないが)。宗教上の理由から三女の結婚に反対する一方で、父への反発から出奔した次女を慈しむ。その裏には、父の信仰と分教会が長女を苦しめ、追い詰め、あきらめ、他者のために生きることとして肯定してきた時間経過がある。その過程があるだけに、三女の結婚に反対するやさしさがある。異教徒に嫁がせることの否定ではなく、同じ苦労をさせたくないがための反対であろう。そしてこの行動は、「肯定したはずの自らの人生」を否定するものでもある。
その長女は、後半で三女の結婚を認めることとなる。結婚への反対がやさしさなら、賛成は三女の不幸を喜ぶ行為なのか、それとも同じ苦労をさせることになる結婚をいったんは反対しながら後に賛成するという狡い行動なのか。もちろんそこには長女の過去の体験からくる三女への慈しみがあるのだが、一筋縄ではいかない感情の複雑さが存在する。
長女と次女と三女は、それぞれにお互いのことを想いあう様子が積み重ねられていく。それと同時に、三女の結婚相手もお互いの家族のことを想っている。想いあえばあうほど、すれ違う光景は親や宗教のしがらみを浮き彫りにする。いや、しがらみというのは親や宗教に限らない。そんなことを思い浮かべている。

やや、考えすぎのような気がしてきた。

ただ、親子を描いている

もっとも狡さを感じるのは、長女ではなく次女だ。三女の好きなように、と言う次女の発言と行動には、父の呪縛から逃れられなかった長女の姿を三女にも見ている。3人姉妹の人間関係の複雑さは、根底に同じものが流れているからこそ、より複雑に見えてくる。長女も次女も三女も、この劇中で「拝む」のだ。それが父のことを拝むのか、分教会の信仰対象を拝むのか、真意はわからない。3人の娘たちをつなげているのは父であり分教会もしくは信仰対象であることをはっきりと、かつ、さりげなく見せている。誰も父の呪縛から逃れてはいないのである。

何かを一途に信じることが必ずしも幸せとは限らない、という感覚を僕は持っている。それが不幸せとは限らない、という理解のよりも一応は持ち合わせているつもりだ。それでもなお、「分教会=父」に全員が戻る、帰る、つながることに困惑する。僕自身を振り返ると、自らと自らの両親との関係に宗教は介在しない。宗教は介在しないが、老齢の両親のもとに足を運び、様子を見、何かを手伝い、心のどこかで気にかけ続けている。宗教が介在したとたんに抵抗感や嫌悪感を感じるが、本作から宗教を取り除くと、本作と僕自身の間に違いはほぼないようにも思う。

堂々巡り、という言葉がふと浮かんだ。

もうひとつのストーリーの役割

宗教を拠りどころとする家族のストーリーは、3姉妹のほかに三女の結婚相手にも存在した。故に、結婚相手は躊躇する。兄が継がず、自分が実家に帰らなければ、妹が継がざるを得ない。だが、結婚を理由に誰かを巻き込むことへの躊躇もある。これは、3姉妹のストーリーと重なる。
もうひとつのストーリーとは、熱心な信者だ。家族にないがしろにされ、居所も拠りどころもなく、長女の分教会にたどり着く。必死に信仰にのめり込むが、それは居所と拠りどころを守るためだ。本作のラスト直前のこの熱心な信者の独白は、差別の中に生きる孤独から逃れたくても逃れられていない叫びだ。この叫びが、本作のテーマをまとめ上げていく。

きっと、これは赦しと救いの芝居だ

長女は三女を赦し、次女は父を赦す。三女は結婚相手を救い、熱心な信者は長女を救う。幾重にも呪縛に呪縛を重ねた芝居は、ラスト20分くらいだろうか、そのすべての呪縛から解き放たれるシーンを重ねていく。すべての拠りどころは、その人本人の良心にあると言わんばかりに。宗教や呪縛という名の方舟から、自分自身の心や良心という陸地に最初の一歩を踏み出した時、方舟と別れを告げるのであろう。
雑感の表現としては少しばかり誇張と語弊のある表現だが、僕の印象はここにたどり着いた。なんにせよ、正面からぶつかるには重たい「さよなら方舟」である。

様々な作り込みが可能なホン。

全体に暗いイメージは、舞台装置の作りか、演出なのか、宗教をテーマにしているからか。会話劇の中にさまざまな小ネタが仕込んであり、ドタバタにもシリアスにも明るくも暗くも演出次第のホンである。ホンと正面からぶつかればぶつかるほど、丁寧に描けば描くほどにシーンや台詞の明暗、コントラストを失いかねない。もちろん、そういう演出もひとつの方法だ。
率直な印象として、役者のコントラストのしっかりとした演技を、黒の舞台が吸収しているように感じた。演出は、その効果を含め、オーソドックスと言えばオーソドックス、ストレートと言えばストレート、丁寧に丁寧に作品を作り上げていると思う。その一方で、役者のコントラストのある演技をより後押しする舞台の色使いも見てみたい。テーマや人物像の背景にある影を一切含まない、見せない明るさを配置する、というのも方法の一つだろう。
どっしりとした力のある脚本は、いかなる演出をも受け入れ、テーマ性を見失わせない度量を持ち合わせているからこそ、いろいろなチャレンジが許されるように思う。


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