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観劇雑感 TGR2024 PANCETTA TOUR2024 SAPPORO「声」

観劇後のX。
「声の暴力、言葉の感情、コントロールされた身体表現、研ぎ澄まされ豊かなる出演者の感性。」

2024年11月30日(土)13:00~ ことにパトス PANCETTA TOUR2024 SAPPORO
「声」

~~ フライヤーより ~~

――― その声で、すべてが伝わる ―――
体を震わせる。その振動が、音になる。
その音が、私を離れていく。
その音が、空気を伝わっていく。
その音が、あなたへ届く。
その音が、あなたの身体を震わせる。
その音が、あなたの心を震わせる。

【脚本・演出】
一宮周平(PANCETTA)
【出演】
佐藤竜/吉沢尚吾/一宮周平
【ピアノ】
加藤亜祐美

【舞台監督】弦巻啓太(弦巻楽団) 【照明】中森彩 【音楽】加藤亜祐美 【絵】松本亮平 【グラフィックデザイン】斎藤俊輔 (※一部省略しました)

~~ 雑感 ~~


5つの作品のオムニバス、と、ラジオ。

プロローグとエピローグ、そして5つの作品で構成されるオムニバス。
プロローグはプロローグなのだが、暗闇からの声で想像する世界と実際との違いを見せ、「声」のみの不確実性を前置するという一つの作品にそぉっと仕上げた。前説のようではあるが、前説ではないのである。プロローグが、観客を一気に引き寄せた見事な導入作品だった。
さらに、開場中は音声が流れていた。会話だ。落ち着いたトークは出演者が札幌に到着してからのことを話している。これは観劇前にふとSNSで観劇済みのお客様がつぶやいているのを見てしまっていた・・・生の楽屋からの配信、だそうだ。これも声。声だけ。全く個人的なことだが、高校アナウンスの経験から、ネットでの短いラジオ番組を制作したいと思い続けていた。参考にしよう。

オムニバスの紹介を少々。

「 High tone 」 ~美声院で声を?!
髪型を整えるように声を整える、との発想に、なぜかしっくりときた。違和感がなぜ少ないのか・・・そうか、声を出し、会話をし、講演をし、時に公演をし、歌を歌う。僕にとっての一日の良し悪しを決める大事な要素に声があった。もう少し高い声をきれいに出せたら、と思うこともたびたびである。声は大きな要素であり、誰しも整えることがあるものだからか・・・。妙に納得。

「 Three wise monkyes 」 ~三猿は世界を見ている
選挙、戦争、感染症・・・最近の出来事を背景に三猿が歌い踊りながら揶揄している。「民は之を由らしむべし、之を知らしむべからず」との姿勢を指摘しているようである。
なお、「民は・・・」は「為政者の定めた法で人々を従わせることができるが、法の理由を人々に理解させるのは難しい」との意。ここで使用した「教える必要はない、従わせておけ」の意は、使われてはいるが本来の意ではない。

「 Mismatch 」 ~その子は二度、捨てられる
三猿のエンディングからスムースにつながれた3作品目。クラスの子にも教師にも虐められる子、愛らしきものはあるようにみえるが身勝手な父。そのうち子は感情を押し殺し表情だけは笑う。父は声と表情がずれていることを喜び、ショーデビューさせる。従う子、儲ける父。一人で稼ぐことができるようになった子に、別れを告げる父。彼は、実の父ではないようだ。
別れは厄介払いなのか、愛情なのか。責任ある態度なのか無責任なのか。
二度捨てられた子は笑顔で涙をこぼし、僕の心には動揺が走る。

「 Ano 」 ~擬声語・擬態語の世界
人の状況、行動、物の動き、作業などあらゆるものをオノマトペで表現している。

「アしクサ」 ~心を感じる未来のAI
男性二人とAIロボットの時間。「電気をつけて」でスイッチを押しに行くロボットは、アナログのぬくもりを感じさせる。男の恋心は儚くも砕ける。拒否はされたが、別れではなかった。それが悲しい。声で動くAIロボットは、声に出すことでの悲しみを知ったのだろうか。
※アレクサではない、ア「し」クサである。その理由は、きっとご想像のとおり。

「l言葉」への依存が、「声」を暴力にする

これは、あくまで僕だけの感想であり印象だろう。

人の行動、感情など舞台上の出来事をオノマトペで表現した「Ano」。実によくできているとは思う。これが「音」であれば、コンテンポラリーなマイム、終わったのかもしれない。オノマトペの可能性、表現力を信じた作品だ。

僕の感じた一般論としては、ここまでである。
この作品は、僕の感性というか、感じ方の課題を明らかにした。今回の観劇で感じたことの中核を担う内容でもあり、大変個人的なことにはなるが、多少解説してみたい。

前提のひとつは、マイムや動きには「音」はなく、具体的な仕草によって意図や場面や感情を伝える、ノンバーバルコミュニケーションそのものであること。視覚的にかなり強い印象を与えてくる。
もうひとつの前提は、いわゆる「オノマトペ」が「音」や「音楽」、そして「言葉」でもなく、「声」であるということ。「音」は存在する、「音楽」は表現する、「言葉」は意味する。「声」は発する、発せられる。表現も意味も「声」そのものにはないが、発する存在にしかわからない何かが含まれている。

このふたつ、ノンバーバルコミュニケーションと「声」が同時にそこに在ると、ノンバーバルの具体的な意味を「声」が増幅させ、「声」の持つ何かがノンバーバルとは違うものを発し、受け手の僕は何をどう感じているのか自分自身でもわからない状態に陥った。その結果、息苦しさを感じ、軽いめまいが起き、そこに黒い舞台が視界を奪い、徐々に椅子に座っている姿勢が保てなくなっていった。

これが暗闇だったとしたら、僕は目を閉じ、耳をふさがなければならなかったかもしれない。意味のある「言葉」に依存している僕にとって、「声」とは暴力だった。

「声に出したら、何かが動きます。少なくとも私はそうです。」

同級生の川ちゃんに心を寄せる山ちゃん。同性同士であるが故に、ただ一緒にいる時間が幸せであり、そう考えることを課してきた。AIロボットのアしクサが、告白を後押しする。川ちゃんが寂しがっている、声でわかる、と。「声に出したら、何かが動きます。少なくとも私はそうです。」

同級生の結婚式のあと、二次会がわりに山ちゃんの部屋で紅茶。とりとめもない話のあと、仕事先からの電話に川ちゃんは帰ることになる。せっかくの機会が去ろうとするとき、アしクサが山ちゃんの背中を押した。山ちゃんの告白を川ちゃんは誠実に受け止めて断り、友人関係を保つことができるあろう気配を残し、川ちゃんは仕事に赴く。

勇気をもって言葉にしなければ、望む未来にはつながらない。勇気をもって言葉にしても、必ずしも望む未来が訪れるとは限らない。私たちはそういう世界に生きている。ならば、勇気をもって言葉にしたい。声にしたい。

アしクサの言葉が、時間が経てば経つほど、心に沁みる。

細部に心は宿る

高い精度でコントロールされた身体表現は、一挙手一投足の動きに感情を与える。比較的大柄な佐藤竜さんの音を相当抑えた動き、AIロボットの時の表情と動作と視線には実に驚かされ、圧倒された。どのシーンでもやんちゃな風情を漂わせる吉沢尚吾さんの動きは自然で無駄がなかった。「アしクサ」の山ちゃんの一宮周平さんは、小さな仕草やほんの少しの身体の使い方が山ちゃんだった。

ホンを読めば、自然とそうなるとか、必要な仕草ができるということではないだろう。考えられたホンに対し、考えに考え抜かれた動きを積み重ね、結果として自然体ともいえる舞台上の光景となったのだろうと思う。
舞台上の導線とシーンの展開に重きが置かれ、指先の動きには神経が届かない舞台や役者が少なくない中、小さな仕草が舞台を創る好例を観た。細部に心が宿る丁寧なお芝居である。

出演者の豊かな感性

細部にまで心が宿るのは、高い精度でのコントロールとホンの深い理解、表現する役者の豊かな感性が必要だ。二度捨てられた子のように、満面の笑顔で涙を流せるだろうか。声を震わせて告白できるだろうか。告白までもどかしげでどこか憂鬱ながらもその瞬間が来るのを期待した表情と仕草ができるだろうか。告白してきた相手を振って、友達同士でという言葉を飲み込みながら背中が「ごめん、でも・・・」という表情を見せることができるだろうか。

ホンに頼るのではなく、ホンを生かす芝居を僕は堪能した。

エピローグは喜びの涙

3人の役者が並び、エンディングの様相。このままでは終わらず、最後のシーンが展開された。
単なる3人の役者だったはずが、両端が劇中の親子。親が真ん中の役者に耳打ち、子が真ん中の役者に耳打ち、会話をつなぐ真ん中。そのうちこらえきれなくなり。
父 「ずっと会いたかった。」
子 「僕も。お父ちゃん。」

笑顔で、涙。

あぁ、だめだ。

エピローグ直前の勇気を声にした山ちゃんに、親子の再会に、僕はしばらく涙に暮れた。

追伸、

ピアノの加藤亜祐美さんは、この作品の音楽を担当する。舞台上でのピアノ演奏、ボイスパーカッション、歌を自在に操り、ルーパーで重ねていく。この方がいて、今回の公演のパーツが揃うのである。
ここまで役者について書いてきたが、加藤さんを加えた4人の舞台であることをしっかりと記しておきたい。
観劇の日は終演後に次の予定があり、出演の皆さんを横目に見ながらそそくさと会場を後にした。もし時間があれば、皆さんに感激をなんらか伝えたかった。自分の観劇というか感情というか、そういうものを抑えられずにハグしていたかもしれなかったが。そういう意味では、時間がなくて迷惑をかけることがなくてよかったと思うこの頃である。

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