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観劇雑感 TGR2024 劇団怪獣無法地帯「全員、青い~OH!My blue blues~」
観劇後のX。
「多数の主観は少数への偏見、協調は多数から少数への配慮ではなく「個」の認め合いと考えたい。無法な構成と自由な役者たちによる多様性の坩堝こそ、劇団怪獣無法地帯。」
2024年11月29日(金)19:30~ BLOCH 劇団怪獣無法地帯
「全員、青い ~OH!My blue blues~」
~~ フライヤーより ~~
50万分の1の確率。うすだいだい色の肌で生まれた、僕の青春___。
国民の圧倒的多数が青い肌の色=肌色の世界で、何の因果かいたずらか、特別な肌の色を持って生まれた橙(だいだい)が、強くおもしろくたくましく生きていくハートフルコメディ。
【出演】
-白田家-
丹生尋基(白田だいだい)
棚田満(シアン、祖父)、小松悟(テツ、父)、畠山真波(ハナダ、母)、新井田琴江(清々、ハナダの妹でシアンの養女)、むらかみ智大(群青、兄)、前田叶愛(クッキーモンスター、妹)
-その他―
国門紋朱(アイ先生)、伊藤しょうこ(あさぎ先生)、後藤カツキ(空/ほぼ無痛分娩装置)、赤澤夢望(瑠璃)、足達泰雅(スイ)、恒本礼透(アクア)
【脚本・演出・宣伝美術】新井田琴江 【照明】松本紀子 【音響】渥美光 【衣装・メイク指導】大坂友里絵 【制作】小川しおり、赤澤夢望 【舞台監督】棚田満、前田叶愛 【演出助手】足達泰雅 (※一部省略しました)
~~ 雑感 ~~
毎回(多分)前説、棚田さん。
昨年のTGRで初めて怪獣無法地帯を観劇したため、毎回かどうかはわからないが、きっと毎回、前説は棚田さんなのだろう。
今回はお面。青いメイクを本番まで見せないため、だそうだ。お面での前説はさぞ大変だろうと思いきや、張りのある声で、なにより。生きる力の強さを感じた。
声はその人を表す、と思う。声は、特にその人の緊張や体調を表す場合が多いのではないか。僕自身はストレスを感じやすく、基本的に声に張りがない。お腹から声が出ない。舞台で演じることから離れて約10年、発声も滑舌も不確かな自分にがっかりな54歳。
棚田さんは68歳だそうだ。前説でご本人が言っていた。あの張りのある声はうらやましい。今回のTGRでもそうだが、演技なのか演出なのかなんなのか、やたらと「大声」になる役者がいる。「でかい」と「張り」は声として違う。大声は声帯から発し、ビリビリとした振動で金属的な音を私たちの耳に伝えてくる。張りのある声はカラダから響いてくるので、振動が複雑で柔らかいのだ。音量が小さくても、客席の端まで声が届く。役者もしくは演出の意図として使い分けてほしい。
前説が終わって、袖にはけて、スタッフの皆さんに「よろしくお願いします」と小声の棚田さん。客席にしっかり聞こえている。スタッフへの声掛けが聞こえるのはどうかとも思うが、それもまた、気持ちと声が心地よく聞こえる良い瞬間であった。
青が肌色、ひとそれぞれの「アオ」が肌色
主人公と思われる「だいだい」以外は、全員青。この世界では青が肌色である。
・・・そう書き始めて、観劇中に感じたことを思い出した。肌の色を「肌色」という表現で統一してはいなかったな。群青を「青より青い色」と表現したくだりがあったな。ほかにも「青」と「肌色」の混在があったよな。後半に向けて肌の色を「肌色」と表現していたように思うが、色そのものの表現では青がでてきたいたな。
青を指して肌色と表現すると、われわれ「うすだいだい色」の人間は混乱するだろう。それを考えての表現なのだろうと思う。後半にかけて「肌色」の表現が増えたのは、舞台上で青=肌色が定着する時間を待ってのことだろう。
また、「青」だろうが「うすだいだい」だろうが、肌の色は「肌色」と表現する、との意思が働いたのかもしれない。これは、様々な肌色を認め合う価値観、肌の色以外にも存在する「違う」ことを起因とする差別に対してのアンチテーゼ、だと感じた。
舞台では、同じ青であっても、その濃度が人によって違っていた。肌の色そのものだけではなく青が薄いこと差別の対象となっていた事実が途中で語られている。加えて、小学校の先生と病院の医師の二人が「濃い」と表現され、癖がある性格を指す意味と肌の色が濃いことを指す意味とが併存したシーンがあった。このあたりは、差別の要素を個性の要素に置き換えることで、差別感を和らげていくシーンだった。
舞台上に存在する世界を見せるのだけではなく、僕らが生きている世界に舞台を引き寄せ、差別を差別として表現するのではなく多様性を語る脚本として、相当にうまく描かれたホンである。
主人公は、たぶん「だいだい」
肌の色が違うからきっとそうだろう。フライヤーの《出演》記載順も、そうだし。主人公はたぶんそうだろう。
そう書いた理由は、周囲が濃いことだ。あさぎ先生とアイ先生の友情成立物語は「濃い」シーンだった。分娩は機械が出てきて壊れる、「だいだい」が生まれたときに父が失踪した、見知らぬ子どもを拾って養子にする、兄がやたらとうるさい、同級生(と思われる人々)は子どもの残酷さ満載の登場などなど、実に、濃い。
「だいだい」の浮かび上がらせ方は、周りに色を塗って浮かび上がらせる、周りの色が濃い目で白や薄い色が目立ってくる、という方法だ。肌の色を変え、他の登場人物の性格を強めにかつ大きな声でよくしゃべるようにしてある。「だいだい」は言葉を発するようになる時期が遅く、その後も声が小さかったり口数か少なかったりする分を身体での単語表現で補ったり、と、コントラストを取り入れた。
芝居のコントラスト
コントラストの表現、芸術として、比較して考えてみたいことがある。
黒と白の表現である書道では、「白が生きている」「白がきれい」と表現することがある。白い紙に対して黒の配置や分量のバランスがよく、鮮やかなコントラストを魅せている、と表現すると想像ができるかもしれない。配置や分量のバランスに一定の正解があるわけではないのだが、書家(作者)の意図がしっかりと表現されている、というのが大事な要素だと思う。今回の作品のホン及び演出には、書道における黒と白の要素があると思う。
当日のパンフで脚本・演出の新井田琴江さんは、
「あいつら青いぞ、やってんな~などと思われたくて」
「肌の色のことに限らず。たくさんのだいだいたちへ、捧げます。」
と書いている。テーマは差別、手法はコメディ。コメディの中で差別を深刻とならず軽やかに描きつつ、テーマを浮き彫りにするという難しいバランスに挑戦した、と僕は解釈している。深刻な場面を配置しつつ、コメディで全体を仕上げることで、くっきりとしたコントラストで観客の心に重たいテーマを残すことを否とした結果、主人公がコントラストによって押し出されていないようにも感じるこの作品は、考えに考えて生まれた舞台なのである(・・・と、考えすぎてみた)。
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