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観劇雑感 TGR2024 yhs「四谷美談」
観劇後のX。
「これは人の闇を表現しているのではない。人の弱さ、いや、心の襞の表現だ。」
2024年12月1日(日)13:00~ コンカリーニョ yhs「四谷美談」
~~ フライヤーより ~~
師走の夜、東京では大雪が降りしきっており、それに伴う交通情報や警報がSNS上を埋め尽くしていた。と、唐突にニュース速報が流れる。
『新宿区四谷のマンションで女性の遺体を発見。歌舞伎俳優、民谷伊右衛門を指名手配。現在、消息不明。』
衝撃のニュースに世間はざわつき、様々な情報が飛び交い、憶測は駆け巡るのだった―――。
果たして、伊右衛門はどこへ行ったのか。
物語はこの事件の数日前から始まり、やがて真実に辿り着く。
四世鶴屋南北の代表作「四谷怪談」をベースにしながら、現代の径納会・SNSの世界を舞台に移し、「愛」と「美」にとらわれた人々を描くサスペンス・ストーリー。
【登場人物/PLAYER】
伊右衛門/能登英輔、祝/曽我夕子、与茂七/佐藤亮太、喜依/青木玖璃子、槙/小島彩歌、宅悦/小原アルト、紬/小西麻里菜、直助/増田駿亮、梅/岡田怜奈、整形医/向山康貴、ホテル従業員/前本彩乃・宮下諒平(ダブルキャスト)、看護師/長澤ニコ・てん(ダブルキャスト)
【脚本・演出】南参
【原作】四世鶴屋南北『東海道四谷怪談』
【音楽】Rz×Shoji(ロミオマシーン)
【主題歌】テツヤ(月光グリーン)
【舞台監督】丹治泰人 【舞台装置協力】濱道俊介(大人の事情協議会) 【照明】手嶋浩二郎(夕凪) 【音響】橋本一生 【衣装】アキヨ(yhs) 【特殊メイク】吉田ひでお(アーリオ工房) 【宣伝美術】二朗松田 【宣伝写真】工藤ひまわり 【制作】水戸もえみ
(※一部省略しました)
~~ 雑感 ~~
コンカリーニョ、という空間
一段高い舞台は、ホテルの大広間、歌舞伎役者宅の居間と寝室、雑踏、路地へと自在に変化する。
一段低い舞台では、SNSという露地で無責任な感情が横溢する。
場面が交錯するシーンでは舞台を対角に使い、距離と照明を生かしたフォーカスの切り替えで観客を翻弄する。
この舞台づくりと演出は、高さと広さのある「コンカリーニョ」という空間を生かしている、という一点に尽きる。
一段高い舞台には、正面オクに鴨居も敷居もない空間を配置した。時に吹き抜け感のある天井の高いホテルのエントランスを思わせ、時に引き戸や観音開き(両開き戸)とも思わせる。その空間からデハケする役者の演技、シーンに伴って入口の見え方が変化する。歌舞伎役者宅では、拍子木の音を活用した。拍子木と言っても2本を打ち合わせるのではなく、板に打ちつける「ツケ」「付け拍子木」などと呼ばれる打ち方での音である。役者が引き戸を勢いよく閉めるような動作に音をツケるのである。緊張感とともに、歌舞伎の世界を強く思わせる演出だ。
一段低い舞台では、黒衣(くろご)の頭巾を付けた人々が、ニュース速報をリツイート(リポスト)で拡散し、コメントを寄せる様子を演じた。また、芝居の外側のシーンもこの低い舞台で演じられた。加えて、除外された者とその心情も展開された。
速報とそれに対するふとした思い付きや解釈の投稿が、SNSを通じて見る間に拡散されることの怖さと、「たまたま自分(だけ)が見つけた」秘密のような根拠のない信頼感を持ってしまう怖さ、この2つが展開されることで、それを「外野から見る」観客の感情を揺さぶる効果があった。
舞台を対角に使いフォーカスの切り替えを行うことでスパイラルを表現し、一段高い舞台での芝居を押し上げる効果に勢いをつけた。照明の点滅に近い切り替えは、映像でのサブリミナル効果にも近い状況をも生み出してはいなかっただろうか。
コンカリーニョという空間だからこその演出である。今回で3回目という「四谷美談」。再演の難しさを越えて、年を追うごとにコンカリーニョの特徴と活用に精通、熟練する南参演出がなせる業、である。
観客はSNSの住人
中心となる一段高い舞台で展開される主旋律、一段低い舞台で展開される副旋律。この二つが本作品を構成し、副旋律が主旋律を引き立てている、と思われる方もいるかもしれない。だとすると、多分、主旋律を奏でる役者の感情に共感し、時に心を揺さぶられ、笑い、涙するに違いない。
この作品は、良くも悪くもそうした構成ではない。速報の知らせる出来事だけにとっさに反応するSNSの身勝手さと、出来事の裏にある登場人物の心の襞を、どちらの立場に立つでもなく外側から見ることができる「外野」に観客がいる状態である。それは、yhsならではの作品づくりである。
もうひとつ忘れてはいけないのは、観客は基本的にSNSの住人、ということである。
人々の多くは様々な出来事に自分の観点や感性などから生まれる率直な感想や印象を持つ。その出来事に身近な人々が関係する場合、関係性や影響を考えて言葉を選ぶことが多い。しかし、言えるかどうかはともかく、感想や印象は持つのである。つまり、誰しもがそうしたものを持ち、言うのか言わないのか、書くのか書かないのか、である。このため、登場人物に感情移入する必要を求められていない作品では「外野」にいられるのである。
この作品は、登場人物それぞれの悲惨な結末を憐れむでも、SNSの理不尽に憤るわけでもない。両方の一致しない旋律を巧みに配置しSNSの住人たる観客に主人公の解釈さえも任せた不条理劇と言えるかもしれない。
だからこそ求められる的確な脚本と役者の力量
脚本は、当然ではあるが登場人物に具体的な人物を求め、役者が好演した。練度の高い歌舞伎役者の伊右衛門、不幸と狂気を孕んだ祝、欲望を隠し切れない与茂七、破天荒の中に他者への依存性の滲んだ喜衣など、一人一人の力量が高くなければ成立しないホンである。
SNSの住人には、演出上は一般化された日々同じことを繰り返す個人の集まりとしての存在を求め、その具象化は観客の想像に預けた。観客とSNSの住人との共感を念頭においた部分であり、ホンの良さが特に際立つ部分だ。
本作品は2013年に初演、2016年に再演、今回は再々演となる。過去の上演を僕は見ていない。脚本も読む機会は当然になかった。再々演を見て、3度の公演台本を読み比べ、配役がどのように変わり、演出がどのように行われてきたのかを知りたい。
そおっと演出に関して触れるなら、役柄に応じた崩れないまたは崩さない心の檻、心情か信条か柱となる「型」があったのではなかろうか。なかでも宅悦が舞台の展開の柱となる型を持った役柄だったように思う。
「型」といえば、役者が引き戸を勢いよく閉めるような動作の、役者による違いがなんとなく目を引いた。何をしている動作なのか、統一感を感じられなかったせいだろうか。些細ではあるが、僕にとっては謎である。
佇む伊右衛門、存在する与茂七
役者を観ていて、ある二人の立ち姿に感じるものがあった。
伊右衛門の立ち姿は、自然であった。佇む、という言葉がしっくりくる様子に、能登英輔さんの力量の高さを見る思いであった。
与茂七の立ち姿は、自尊心というか自負心というか、「俺は俺としてここにいるのだ」と存在を主張する「すっくとした」立ち姿に、ともすれば禍々しさを見た。これもまた、佐藤亮太さんの力量である。
どの役者もよかったのだが、注目したのは実は直助だ。
「これは人の闇を表現しているのではない。人の弱さ、いや、心の襞の表現だ。」
観劇後にXに投稿したこの表現は、直助から始まり、与茂七や祝、伊右衛門を経て出てきたものである。
果たして大阪・インディペンデントシアター1stでは・・・
コンカリーニョと舞台空間がかなり違う大阪・インディペンデントシアター1st。この違いを演出上どう再構成するのかがとても気になる。大阪遠征、とまではいかなかったので答えは知らない。ただ、終演後の様子だろうか、舞台がわかる画像をSNSで見た。こういう感じか・・・導線、舞台信仰、演出の変更など、いろいろ聞いてみたいものである。・・・まぁ、大変勝手な話で、機会はなさそうではあるが。
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