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観劇雑感 TGR2024 劇団・木製ボイジャー14号「ドララ・キュララ」

観劇後のX。
「ほとばしる生、ひしめく死。死して生きるか生きて死するか。」

2024年11月30日(土)19:00~ シアターZOO劇団・木製ボイジャー14号
「ドララ・キュララ」

~~ フライヤーより ~~

従妹が大学進学のため札幌からこの街に越してきた。のに、気づけば、
繁華街のガールズバーに勤め、失踪。
家畜と女子大生の相次ぐ変死。
わたしの会社は雲行きが怪しい。
相も変わらず、男衆に目もくれず、車いじりをする親友。
かの不死者の王が顕れたこの街で。

【出演】 ※cast(役)
寺地ユイ(丸井美奈子)、山崎亜莉紗(瀬川美佳子)、田村咲星(西川ルミ)、石井辰哉(大木マサキ)、前田透(芳賀翔也)、竹道光希(権藤麻里)、池田僚(白井春義)、安藤ユーキ(堀井譲)、パッション(阪)、近江和奈(森久子)
【脚本・演出】前田透 【照明】山本雄飛 【音響オペ】中嶋紗音 【舞台美術】こんの工作所 【舞台監督】田中舞奈 【衣装】大倉さくら、小丸七蘭、朱麗、山田小春 【衣装協力】劇団GlanzPark 【小道具】赤塚汰雅 【フライヤーデザイン】むらかみなお 【イラスト】山口鯨 【制作】寺田彩乃、鎌塚慎平 【制作協力】ダブルス 【受付スタッフ】くちこ 【協力】菅海哉、中田遥
※所属のほか一部記載を省略しました。

~~ 雑感 ~~


赤、黄、緑の箱、箱、箱。

20個ほどあったのだろうか。赤、黄、緑の3色と思われる箱。あの状態で暗転して役者が出てくるなんて、中央に置いた車を暗転中にハケるなんて・・・。バミリがあったりしているのだろうとは思うが、とにかく役者は大変だったろう、などと思う次第。もうあの中を僕は歩けない笑
なぜ赤、黄、緑の3色だったのだろう。見えない面もあるので3食ではないのかもしれないが、とりあえず3色だったと仮定して考えてみた。
ドラキュラの物語という点では、ドラキュラ伯爵が居を構えていたルーマニアの国旗が赤、黄、青である。緑ではないが、緑のように表記された古い絵もあるようだ。ルーマニアの近隣ではリトアニア、あとはアフリカ諸国が赤、黄、緑の3色を使用している。赤は血、黄は富、緑は農業や希望を示すともいう。それよりも信号の3色だろうか。赤止まれ、黄注意、緑進め。

箱の色と作品と。

作品は、誰しもが立ち止まることなく動く様子を見せていた。
どこからか逃げてきたとも思われる男女はこの地で二人の生活に希望を見出そうとし、生活のために収入を求めて働くものの、男は事故死らしき状況に。従妹は失踪してのち、不死者としての死を迎える。その死を与えたのは年の離れた従姉たち。役に立ちたいと言いながらその思惑には暗い影さえも見え隠れするゴーストライター。真面目に働くものの気持ちを揺さぶる出来事に憤る者。信頼の裏側には不死の秘密。かくも様々な人生が交差するこの街は、どこなのか。

箱の3色は、国旗や信号の示す色の意味合いを、芝居の展開、つまり脚本と関連付けて示しているのかもしれない。それとも、パーツがバラバラになって完成しないルービックキューブをも示す深慮なのか。論理的思考と問題解決能力を鍛えると言われる四方形のパーツを舞台上にバラバラに配置することで、舞台を観る我々にまず混乱を与え、展開とともに冷静さを取り戻させようとの意図さえも・・・

というのは、さすがに考えすぎだろう。

とはいえ、あの数の箱を出したこと自体には意味があるわけで、そこは脚本・演出の前田透さんの意図を聞いてみたいところではある。

不死者の時間軸がふたつ。

ドラキュラは出てくるわけで、当然不死身のようである。
もうひとりの不死身的な者は、主人公と目される丸山の親友、瀬川である。瀬川は誰とも等距離で親しすぎないようにしているのは、友が先に死んでしまう悲しみや寂しさと距離を置きたいから。何年も生きて何人もの人々を見送ってきた彼女は、結局、悲しみや寂しさと距離を置けなくなる。ほかに代えがたい出会いは、耐え難い別れをも凌ぐことに気付いたからなのだろう。
この芝居は、結果として、死なない哀しさと死ねる喜びを、生きる時間を通して表現しているのではなかろうか。それは、ドラキュラがひとりで生きていく時間の長さに耐えられずに、吸血で人の命のぬくもりを自らに取り入れ、自分に寄り添う相手を手に入れようとしている行動にも表れている。

「かの不死者の王が顕れたこの街で」起こる出来事は、第1に殺される恐怖を明示し、第2に死なない恐怖を暗示し、第3に限りある命ゆえのきらめきを黙示しているように思えた。

舞台全体の情報量。

いくつものシーンが次々と配置され、人間関係を把握するには情報が少ないようにも感じた舞台。いや、少ないというよりは、結構多い情報を提供しているのだが、脚本の意図として「思わせる」「展開で感じさせる」選択をした、ということなのだろう。権藤麻里と白井春義の関係はまさにその典型とも言えた。背景の情報を数多くイタの上に乗せると、それこそ捌ききれないためわかりにくくなる。また、上演時間を無為に延ばす結果につながる。ここはホンを書く方々にとって、伝えるうえで必要なものを残し、不必要なものをなくしつつ、骨格に対してどのような肉付けをするのかという点で特に葛藤があるのではなかろうか。
今回、僕が気になったのは登場していない役柄があった、もしくは登場していても気づいていない役柄があったことである。「あれ、芳賀くんは?」とのセリフで「いたっけ?」と思った「芳賀翔也」である。札幌で活躍する役者そのものをあまり覚えていない僕としては、舞台上の役柄でしか存在を承知できない。役者を知っていればわかったのかもしれない。この点は、大変申し訳ないと思いつつも、観る側のことであり恐縮だが許してほしい。

脚本家と演出家には「そういうことが起きる」との前提だけは持っていてほしい。舞台を創るうえでの好みとして、観客に認知されないであろうポジションを作るのか作らないのかは、極めて脚本家の判断である。

若干のお願いとなったが、もしかしたらフォーカスがほかの役者にまんべんなく行き届いていたことの証左かもしれない。そう考えると、コントロールの効いた舞台ともいえよう。

精神世界と現実世界を結ぶ

記憶があいまいな部分があること、大変申し訳ない。
それでも書いてみたいと思うことがある。
間違ってなければ、従妹が失踪した丸山美奈子が、ドラキュラにつかまって精神世界に監禁されたシーンがあった。現実世界の丸山は体が動かない。しかし、精神世界での危機が迫る。現実世界の丸山を動かすことで、精神世界の丸山の危機を脱することができた、というシーンである。
ドラキュラの孤独に対する人間の強さを示す、とても象徴的なシーンとなったと思う。
出会いと別れを繰り返す人生を死別を含めた儚いものとすることなく、どこか軽やかさをも感じるエンディングだった。

顕れる。

「現れる」は姿(現出)、「表れる」は気持ち(表象)、「顕れる」は世間にはっきりと(顕在)、という言葉のイメージがある。「かの不死者の王が顕れたこの街」との表現は、「そこに隠れていた」という背景が言わせた、というよりも、不死者(の隠れ家)はどこの世界にもつながっていて、ただ人間たちが知らないだけ、ということになるのだろう。いみじくも精神世界という言葉を僕自身使ったが、不死者はどこにでもいて、いつでも何かをきっかけに急に存在を認識する、見えだす、という意味を持たせるために「顕」を使ったのだろう。

少しばかり、僕の中に残っているものがある。
この舞台は、重たくも軽くも楽しくも哀しくも感じる、見ごたえのある舞台だ。その舞台を観て、役者か演出かのテンポ間、発する台詞の表現の軽重、舞台上での動き、この3つがアンバランスとなっているような印象を持った。
「顕」を選択していることから、きっとホンでの言葉の選択は考えに考えを重ねていると思う。その結果として、もしかしたらストーリーテーラー的な役割を期待した役柄があり、台詞の量の違いがそう感じる要因なのかもしれない。
そう感じたことはそうとして、なんとなくではあるが、作品の表現したいものをより伝える、表現したいことにより近づけるとしたら、例えば配慮のようなものがいままでよりもほんの少しあると、舞台にホンがより顕れるのかもしれない。そのとき、僕が感じたアンバランスが消えるのかもしれない。

いまさらながら、物販で台本を置いていただろうか、と思い返している。

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