神栖の神々(息栖神社)にご挨拶。
今回は権現塚古墳、息栖神社、蚕霊神社に参拝してまいりました。
まず、神栖の由来は、神之池(ごうのいけ)の「神」と、息栖神社の「栖」から神栖となったとされています。
神之池は鹿島神宮の御手洗池が流れてできたという説もあります。
息栖神社は香取神宮と鹿島神宮と並んで「東国三社」と称される神社です。
神之池は昔、「寒田池(さむだいけ)」と呼ばれていました。
海や川に面していたが、埋め立てられて大きな円状となった。
更に鹿島開発の時代に工業用地確保のための埋立てにより7分の1ほどの大きさとなり、今は長細い台形となっている。
鹿島神宮の御手洗池が流れてきてできたという説もある。
昔の寒田池(神之池) 【神栖市歴史民俗資料館】
「寒田」の由来は、この地域には童子女(うない)の松原というお話があります。
那賀(那珂)の寒田の郎子。
海上の安是の嬢子。
という神に仕える男女がいて、お互いに噂には聞いていて会った時に楽しくて夜が明けるまで一緒に過ごした。
朝になり、人に見られるのが恥ずかしくなり、郎子は奈美松、嬢子は古津松という松となった。
のちにこの寒田の郎子からとって寒田池となる。
「さむだ」から「かんだ」となり、なまって神之池(ごうのいけ)となったとされている。
また安是の嬢子は手子后神社の御祭神として祀られている。
鹿島神宮の御祭神である建御雷神の后や娘とも言われている。
海上(うなかみ)も興味深く、この地域の周辺を昔は菟上之国(うなかみのくに)といったようです。
莵上国造は出雲国造と同じ天穂日命(アメノホヒノミコト)系だそうです。
はじめに、神栖に古墳があることを知り、行ってみることに。
神栖で現存する唯一の古墳。
権現塚古墳。
権現とは仏や菩薩が人々を救うために仮の姿(神様)になって現れること。
古墳時代前期に造られたようです。
周辺には石塚遺跡があり、この集落の首長を埋葬するために造られたと考えられています。
前方後円墳ですが木が生い茂り、形はよく分かりません。
権現塚古墳 【神栖市歴史民俗資料館】
古墳には鳥居がありますが、何も書かれていません。
頂上に神社があります。
灯籠には出雲の紋が入っている。
神栖からも縄文時代の土器等が出土しているので歴史は古いようです。
日川(にっかわ)には縄文文化があったようです。
昔の神栖地区は今のように綺麗な形をしておらず、神之池もそうですが、所々埋め立てています。
近くに「石塚開発の地」という石碑があり、その隣に「息栖神社の歴史」という看板があります。
息栖神社はもともとは日川の中州に鎮座していたようです。
それを807年に平城天皇の勅命を受けた藤原内麻呂が、現在地の息栖の地に遷座させたとされています。
また日本三代実録の「於岐都説(おきつせ)神社」が旧息栖神社のことであるとされています。
旧息栖神社を日川から息栖へ移動したのは、度重なる津波があったことが原因とされています。
ただ、日川の地に鎮座していた時の旧息栖神社、鹿島神宮、香取神宮を結ぶ線は正三角形だったようです。
歴史の都合のにおいがします。
余談ですが、於岐都説神社は行方(なめがた)市沖洲(おきす)に現存しています。
ストレートに考えるとそこが旧息栖神社になるのではないだろうか。
また日川はもしかしたら昔は「ひかわ」と読んだのではないかと想像します。
そうなると出雲とも繋がってきます。
続いて、
神社名: 息栖神社(イキスジンジャ)
鎮座場所: 茨城県神栖市息栖2882
御祭神: 岐神・天鳥船神・住吉三神(上筒男神・中筒男神・底筒男神)
※江戸時代には主神を氣吹戸主神と記している。
末社:
四柱合祀 鹿島神社・伊邪那岐神社・髙房神社・奥宮
五柱合祀 香取神社・手子后神社・八龍神社・江神社・若宮
道祖伸と言われるクナトの神をそのままの名前で祀っている数少ない神社。
出雲神族の祖神。
だいたい別の神様に変えられていて、存在すら消されている。
出雲神族の大首長はクナト、女首長はアラハバキ。
出雲神族は龍神信仰。
縄文の神様。
道祖神とは、
岐(クナト・チマタ)ノ神・船戸(フナト)ノ神・久那斗(クナド)ノ神・塞(サエ)ノ神・障(サエ)ノ神・賽(サイ)ノ神・幸(サイ)ノ神という邪悪なものの侵入を防ぐ神。
それと手向け(タムケ)ノ神という旅人の安全を守る道の神という二要素を包括する概念であったようです。
伊邪那岐尊が黄泉の国から逃げる際、「これ以上来るな。」から「来な処(クナド)」の神、来ないように塞いだことから「塞(サイ)の神」とも言われています。
岐が「ちまた」と読むので千葉県の八街(やちまた)という地名が氣になります。
八岐とすると八岐大蛇にも関係してくるのかな。
明らかに読み方がおかしな漢字の地名は、もともとは違う漢字で後から別の漢字があてられた可能性があります。
出雲の国譲り神話のあと、岐神・天鳥船神は建御雷神(鹿島神宮の御祭神)・経津主神(香取神宮の御祭神)を先導し東国に入り、鹿島・香取両神宮は其々台地に鎮座した。
岐神・天鳥船神は海辺の日川に姿を留め、やがて応神朝になって神社として祀られたとされています。
出雲神族は東北から出雲へ西下したという説があり、そうすると岐神が土地にあかるく先導したのが納得できます。
ただ岐神は望んで先導したのでしょうか。
息栖神社は鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、香取神宮(千葉県香取市)とともに東国三社とよばれています。
「東国三社巡り」は、江戸時代に「お伊勢参りの禊ぎの三社参り」と呼ばれるほど篤い信仰を集めた旅でした。
関東以北の人は伊勢に参宮したのち、「下三宮巡り」と称してこの三社を参拝したようです。
また、東国三社参りをすると、伊勢神宮に参拝したのと同じ御利益があるとされています。
お伊勢参りの禊ぎというと、確かに岐神が禊、魔除け、厄除け、道中安全の神として信仰されているので納得できます。
また息栖神社は江戸時代には氣吹戸主(イブキドヌシ)が主神だったとされている。
氣吹戸主とは大祓詞に登場する神様です。
【祓戸四神】
瀬織津比売 (せおりつひめ) ・・・ 諸々の禍事・罪・穢れを川から海へ流す
速開都比売 (はやあきつひめ) ・・・ 海の底で待ち構えていて諸々の禍事・罪・穢れを飲み込む
氣吹戸主 (いぶきどぬし) ・・・ 諸々の禍事・罪・穢れを飲み込んだのを確認して根の国・底の国に息吹を放つ
速佐須良比売(はやさすらひめ) ・・・ 根の国・底の国に持ち込まれた諸々の禍事・罪・穢れをさすらって失う
岐神も氣吹戸主も「禊」という共通点や、息栖の「息」も「息吹を放つ」に入っています。
もしかしたら同一神かもしれません。
速開都比売、速佐須良比売ともに「速」という字が入っているのも興味深いです。
足神信仰と関係があるかもしれません。
四神とも水に関係の深い神様ですね。
では、息栖神社を実際に参拝してみた話に戻ります。
駐車場から、まずは一の鳥居の方へ。
歩いていると岐神と同一とされている神様と関係がありそうな名字ちらほら目につきます。
神話で岐神と同じような働きをした神様。
そして銚子にはその神様の神社もあります。
やはり神社は足を運ぶものですね。
常陸利根川沿いにある一の鳥居の両脇には、小さな鳥居の建てられた二つの四角い井戸「忍潮井(おしおい)」があります。
男瓶。
女瓶。
岐神は井戸の神様でもあり、息栖神社の御神体は井戸になります。
それぞれの井戸の中を覗くと、うっすらと瓶(かめ)が見え、白御影石で銚子の形をしているものを男瓶(おがめ)、やや小ぶりで土器の形をしているものを女瓶(めがめ)と呼んでいます。
息栖神社の忍潮井 【神栖市歴史民俗資料館】
この忍潮井は、伊勢の明星井(あけぼのい)、山城(京都)の直井と並び、日本三霊泉の一つに数えられています。
忍潮井には次のような伝説があります。
息栖神社が日川から今の地に遷座した際、取り残された男女二つの瓶は神のあとを慕って三日三晩哭き続けたが、とうとう自力で川を遡り、一の鳥居の下にヒタリと据え付いた。
この地に定着して後も、時々日川を恋しがり二つの瓶は泣いた。
日川地区には瓶の泣き声をそのままの「ボウボウ川」と、瓶との別れを惜んで名付けた「瓶立ち川」の地名が今も残されています。
そして、二の鳥居をくぐり参道へ。
境内案内。
参道。
左手に稲荷神社。
阿吽ながら両方とも何か加えています。
そしてほっかむりをしている。
神社では珍しい色の提灯。
石碑。
灯籠。
鹿かな?
これは宇宙?
あ、確かに岐神を祀る神社だ。
道祖神の特徴として女は陰部、男は陽物で表現されるものもある。
まさに陰陽。
手水舎。
活動中。
神門。
力石。
松尾芭蕉の句碑。
松尾芭蕉が「この里は 氣吹戸主の 風寒し」と詠んだことからも、息栖神社の御祭神は江戸時代は氣吹戸主であったことがわかる。
この辺はあまり寒い地区ではない。
「寒」には、寂しいや、恐ろしいという意味もある。
また「サ」は神様の意味があるとされている。
「サ」の付く地名も多い。
武藏国や相模國。
相模國はサ神國なのでそのまま。
私の崇敬神社の寒川神社と同じ共通の意味がありそう。
さむ 3 6。
3+6=9。
境内社。
四柱合祀 鹿島神社・伊邪那岐神社・髙房神社・奥宮
鹿島神社、伊邪那岐神社は納得。
髙房神社は存じ上げない。
五柱合祀 香取神社・手子后神社・八龍神社・江神社・若宮
香取神社は納得。
手子后神社とはどういう関係なんだろう。
八龍神社は八大龍王の略。すると瀬織津姫。
江神社は存じ上げない。
若宮ってはじめて知った。
招霊。
触らないアーシング。
石碑の句にも沖洲の文字。
触らないアーシング2。
伊邪那岐の那岐が凪とも解釈できるのか。
なるほど。
みや桜。
記念碑。
御神木。
みや杉。
息栖の夫婦杉。
社殿。
社紋は左三つ巴。
三つ巴。
3つの巴。
左三巴は9。
裏返すと6。
表裏一体。
3 6 9。
礎石。
本堂。
カラフル。
この神社の御祭神は垂直なので男性である。
岐神なのでそうですね。
昔は息栖神社へは船で行っていたようです。
息栖神社 【神栖市歴史民俗資料館】
東国三社参りは息栖神社、鹿島神宮、香取神宮の内、最後に御朱印いただいた神社で記念品がいただけます。
また三社それぞれで売っている社紋シールを貼ると完成する東国三社守りが売っています。
息栖神社の場合隠れていませんが、奥宮、男根などから岐神が連想されますね。
最後に、
神社名: 蚕霊神社(サンレイジンジャ)
鎮座場所: 茨城県神栖市日川720
御祭神: 不明
神栖町の蚕霊神社、つくば市の蚕影神社、日立市の蚕養神社の3つは、あわせて「常陸国の三蚕神社」と呼ばれています。
この神社には共通の伝説があります。
「金色姫伝説」
「5世紀頃の話です。天竺(インド)にリンエ王という帝がおり、金色姫(こんじきひめ)という娘がいた。
しかし后はなくなり、後添えにきた皇后はこの金色姫を憎み、帝のいない時に、山の中に金色姫を置き去りにしたり、島に流したりしますがうまくいきません。
そこで今度は庭に生き埋めにしてしまいます。
しかしこの庭から光がさし、帝が気がついて助け出しますが、行く末を心配して、泣く泣く中が空洞になった桑の木の船に姫を乗せて海に流したのです。
その舟が荒海にもまれながら漂流して日本の茨城県の豊浦(現在の川尻小貝浜)に漂着したところを、地元の漁師夫婦に助けられて大切に育てられました。
しかし、姫は病に罹り、亡くなってしまいました。
夫婦は深く悲しんで、清らかな唐びつを創り、姫のなきがらを納めました。
するとある夜、夢の中に姫が現れ、「私に食物をください。後で恩返しをします。」と告げました。
そこで唐びつを開けると、姫のなきがらは無く、たくさんの小さな虫になっていました。
丸木舟が桑の木であったので、桑の葉を採って虫に与えると、虫は喜んで食べ、成長しました。
そしてマユを造りました。マユが出来ると、筑波の仙人が現れ、マユから糸を取る方法を教えたといいます。
この漁師夫婦は、この養蚕で栄え、豊浦の河岸に、御殿を建て、姫の御魂を中心に、左右に富士、筑波の神をまつって、蚕影山大権現と称したといいます。
これがこの蚕影山神社のはじめだというのです。」
江戸の文人や好事家の集まり「兎園会」で語られたオーパーツ「虚舟」のモチーフではないかとも言われています。
昔、日立の蚕養神社を於岐都説明神と読んでいたようです。
そして「蚕」が付く神社名には岐神やアラハバキ様が隠れているとされています。
そうすると、ここが昔の息栖神社であった可能性が出てきます。
また日川と息栖の間には石神という地名もあります。
鳥居。
参道。
手水舎。
社殿。
天満宮もあります。
本殿。
本宮には神社の手水舎等に木彫りされている象などが色彩豊かにほどこされています。
あまり神社ってイメージじゃないですね。
確かに日本より、インドって感じがします。
調べていくと色々繋がって面白いです。
次は麻賀多神社に行こうと思います。