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硝子のような夜

硝子のような夜をご存知か。
それは涙越しに見る星々の淡い煌めきの夜。
それはしとどに降る雨に怯えながら過ごす小さな獣の夜。
そっと触れたつもりでも、パキンと壊れてしまう、硝子細工の心臓の夜。

愛をもう信じていないの
ずっと前に心は粉々になって、
信じるのをやめてしまったの
だれかわたしを貫いて
硝子の剣(つるぎ)で貫いて
愛を信じない女の身体を
愛を信じない女を滅ぼすために

それは、大酒飲みのハンスと結婚した若き花嫁のアリサが、ため息混じりに旦那の帰りを待っている夜更け。
隣に住んでいる娼婦のリリィは、情夫にしこたま殴られて、これまた、やけ酒を飲んでいたのです。
すると、玄関のチャイムが鳴って、今日はやけに早いのね、と逸る気持ちを抑えてアリサが立ち上がり、玄関まで出ようとしたとき、カタン、と音がしてドアの新聞受けに何かが放り込まれました。
アリサが新聞受けを覗いてみると、そこには、ピカピカ光る銀の鍵がありました。
「だれの仕業かしら」
興味をそそられて鍵を手にしたアリサは、一応、ドアを開けて、そこに誰もいないことを確かめました。
「もしかして、隣のリリィと間違えたんじゃないかしら」
男の出入りの激しいリリィのことです。
どこぞの熱心な客に秘密の合鍵をもらう約束をしていたのかもしれません。
外に出たついでに、リリィのドアをノックしようとして、アリサは躊躇(ためら)いました。
ドアの奥からは、お酒を飲みすぎたリリィの悲しいすすり泣きが聞こえていたのです。
「いまはよしましょう」
アリサは鍵を握りしめると、すごすごと家の中に引き返し、また旦那の帰りを待つことにしたのです。
そうして、夜中の2時を迎えた頃、またトントン、と今度はノックの音が響きました。
大酒飲みのハンスには似合わない、ひどく控えめで紳士的なノックでした。
「だあれ?」
眠い目をこすりながらソファから降りようとして、アリサはぎくりとしました。
閉めたはずの玄関のカギが、カチャカチャ音を立てて今にも開きそうになっているのです。
思わずドレッサーの引き出しから、拳銃を取り出して身構えるアリサ。
すると、ゆっくり姿を現したのは、白い揃いのスーツに白い杖を持つ盲(めしい)た老人でした。目が不自由なためか、目隠しの上から濃い黒のサングラスをしています。
「だれか、そこにいるね?」
ゆっくりとそう言って、両手を掲げて見せました。
「わたしは危害を加えはしない。」
その言葉に、アリサは構えた銃をゆっくり降ろしました。
「後ろを向いて」
アリサの言葉に老人は素直に従います。
「左側に手を伸ばして。椅子があるから、かけてちょうだい。」
老人はめっぱい腕を伸ばして、なんとか椅子の背を探り当て、ぎこちなくそこに腰を降ろしました。
アリサは老人の前まで行くと、床に置き去りにされた白い杖を拾って、老人の手に握らせました。
「ありがとう、親切なお嬢さん。」
「世の中、プラシバシーってのが大事なのは知ってる?おじさま。」
「そうだな。あったな。」
「どうしてわたしの家の鍵を持ってたの、って訊いてるの。」
「わたしだけ責められるのは好かんな」
「どういうこと?」
「今夜、出かけようとしたら、鍵がいつもと違うことに気づいた。」
「おじさまの家の鍵が?」
「そうとも。すり替えられたようにそっくりな鍵だが、鍵穴に合わん。」
「わたしなら、出かけるのをやめるかしらね」
「そうも言ってられない。わたしはコーヒーを切らしておってな。」
「コーヒーのために、あなた殺されそうになったのよ?」
「まさか。こんな優しいお嬢さんが、人を撃てるわけがない。」
「どうやってここを知ったの?」
「知ったんじゃない。わかっていたのさ、遠い昔にね、妻と住んでた一室だ。思い出の鍵だよ」
「こんなありふれた鍵、どこにでもあるじゃない?」
「二度とないよ、こんな美しい鍵は。」
ポケットから老人が出してきたのは、本当に美しいキラキラ光る金の鍵でした。
アリサはびっくりして、自分の家の鍵束を見に行きましたが、鍵束にぶら下がっているのは、十数年続けている日記帳の鍵、こっそりお金を貯めている観音開きの箪笥の鍵、そして、念のためと預かっている隣のリリィの部屋の合鍵。
アリサの家の鍵がありません。
そういえば。とポケットをまさぐると、先程新聞受けに入っていた銀の鍵が出てきました。
「わたしも、今日思いがけなく知らない鍵を手にしたのよ」
「知らないはずはないよ、きっとお嬢さんに必要な鍵だ」
そうふたりで話していると、バスルームのドアが開き、知らないおばあさんがバスローブ姿で出てきました。
「ふう。いいお湯でしたこと。」
そう言って、おじいさんににっこり笑いかけました。
「ああ、紹介するよ、ぼくの大事な鍵を持ってきてくれた、お嬢さんだ。」
おじいさんも、さも今までこの家で暮らしていたかのように、くつろいで言いました。
「ここはわたしとハンスの家だわ」
アリサはそう言おうとして、はたと気づきました。
壁紙から、ソファの位置、コンロにかけた鍋も、テーブルの上のマグカップも、何もかも古臭く変わっていました。
それで、
「ここはわたしとハンスの家だわ」
と言うかわりに、
「すてきなお家ですこと」
とお世辞を言ってしまいました。
「ありがとう。綺麗なお嬢さん。」
おじいさんもおばあさんも、にっこり笑いました。
そうして、鍵束だけ手にしたアリサは、間違って違う家に入り込んだ気になって、そそくさと出ていくことにしました。
「夜分遅くに、失礼しました。」
すると、おばあさんが忙しなくキッチンの戸棚を漁って、ひとつのクッキー缶を取り出してきました。
「これは、ほんのお礼よ。受け取ってね。」
玄関先でクッキー缶を押し付けられ、断りきれずにアリサは受け取りました。
「ありがとう、おばあさん」
そうして、ふたりの老夫婦に見送られて、アリサはとうとう二度とその部屋に戻ることは叶わなくなったのです。
「わたしとハンスの家は、なくなってしまったのかしら?」
チャリンと鳴る鍵束を手に、呆然としていると、隣から、悲しい歌が聴こえてきました。

愛をもう信じていないの
心はとっくに壊れてしまったの
ずっと前に粉々になって
信じるのをやめてしまったの
だれかわたしを貫いて
硝子の剣(つるぎ)で貫いて
愛を信じない女の身体を
愛を信じない女を滅ぼすために


それは、酔っ払ったリリィの歌う悲しい歌声でした。
気が滅入ってきたアリサは、ちょっと乱暴に隣のドアを叩きました。
「リリィ、入れてちょうだい」
廊下の常夜灯が二、三度瞬くのを数えていると、鍵が開く音がしてリリィが顔を出しました。
「なにさ、不幸な花嫁さん。ついに旦那に愛想がついたの?」
「ちがうわ。わたし、家を失くしてしまったの。しばらくここに泊めてちょうだい」
「なーんだ。似たようなものじゃない。いつか、ハンスはあんたを捨てるよ」
憎まれ口をたたきながらも、リリィはアリサを部屋の中へ入れてくれました。
「お礼にこのクッキーを一緒に食べましょうよ」
「あんたひとりでどうぞ。お湯は沸いてるから紅茶でも淹れるのね。わたしは、まだこっちがいいの」
ふらふら揺れながらリリィはウィスキーの酒瓶を高く掲げて笑いました。
「酔っ払いめ。クッキーはあげないわ」
呆れ顔のアリサが紅茶を淹れて、クッキーを食べようと缶を開くと、そこに入っていたのは、一枚の紙切れでした。
小さく折り畳まれた紙を広げてみると、それはこのアパートの部屋の見取り図でした。
「ここが、不器用な腹話術師サミーのお宅、こちらは、反戦デモに忙しいアリョーシャの隠れ家、そしてお隣の老夫婦の部屋でしょう?で、こっちはこのリリィの部屋。とすると?」
リリィもお酒を片手に興味深そうに近寄ってきました。
「あら。この空間はなにかしら?」
よく見ると、老夫婦の部屋とリリィの部屋の間に、もう一つ部屋があるようです。
2人は顔を見合わせました。
「こんな部屋、あったかしら?」
「わたしに聞かないで。いつも酔っ払っているんだから。」
アリサはさっそくリリィの部屋を出て、隣の部屋との間を見てみました。
すると、そこにはあるはずのない新しい扉がひとつ、壁にポツンと取り付けてあるのです。
念のため、もうひとつ隣の鍵穴を覗いてみましたが、そこはやはり紛れもない老夫婦の部屋で、ふたりは仲良くキスをしていました。
つまり、老夫婦の部屋とリリィの部屋の間に、新しく部屋が現れたのです。
「そこはあんたの部屋じゃないの」
リリィが、呆れたように廊下に顔を出して問いかけます。
「うん、そのはずなんだけどね」
アリサは緊張しながら、ポケットの中の銀の鍵を取り出しました。
「知らないはずはないよ、きっとお嬢さんに必要な鍵だ」
おじいさんが言っていた言葉が頭をよぎります。
鍵はピタリと鍵穴に収まりました。
ゆっくり回して扉を開くと、そこに広がっていた光景は、信じられないものでした。
「遅かったじゃないか、心配したんだぞ。」
すっかり酒が抜けた様子の夫のハンスが、髪を櫛けずり、ワイシャツをパリッと着こなし、ソファに腰掛けてこちらを振り返るところだったのです。
そんなハンスは見たこともなかったし、そんな言葉、いままでかけてもらったことなどありませんでした。
驚いて思わず、バタン、と扉を閉じるアリサでした。
「どうしたの?なにぼーっとしてるのよ?」
リリィが隣の家を出て、こちらへ来ました。
「ハンスじゃない人が、家にいるの」
「何馬鹿なこと言ってるのよ?」
アリサが止める暇もなく、リリィが扉を開きました。すると、魔法にかけられたかのように、リリィの姿が扉の中の光へ吸い込まれていきます。
「ただいま!あなた、遅くなってごめんなさい」
アリサはリリィのその甘ったるい声を聞いて、凍りついてしまいました。
中にいるのは、間違いなく夫のハンスその人です。
「おかえり。さあ、子供達の寝顔を見ておいで。その後、ゆっくり楽しもうじゃないか」
悪夢を見ているように、ハンスの声は長く低く響き渡りました。
「シー!あんまり大きな声を出さないで。わたしの天使たちが起きるわ」
リリィはいつ着替えたのか、冬用の暖かいコートを着込み、それを一枚一枚夫の手で剥ぎ取られながら、くすぐったそうに笑っています。
「じゃあ、わたしは、だれなのよ?」
ヘナヘナとアリサが座り込むと、ハンスがちらとアリサへ目線を落とし、何かを手にして近づいてきました。
「アリサ、発情期もたいがいにしてくれよ?うちには赤ん坊がいるんだから。」
からかうように言って、ミルクの入ったお皿を、アリサの目の前に置いたのです。
「え、わたし、あなたの新しいお嫁さんよ?」
そう抗議したつもりが、硝子のような冷たい夜に、ニャーとひと鳴き、猫の鳴き声があがっただけでした。

それでは、歌って頂きましょう。
盲目のギター弾きで、「硝子のような夜」

愛をもう信じていないの
心はとっくに壊れてしまったの
ずっと前に粉々になって
信じるのをやめてしまったの
だれかわたしを貫いて
硝子の剣で貫いて
愛を信じない女の身体を
愛を信じない女を滅ぼすために

その曲を聴いているのは、1匹の寂しい雌猫だけなのでした。

おしまい

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