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少年、黙して夜を待つ

少年は、何かを愛するにはまだ早すぎた。
ただ彼は、美しく在るものは、かならず沈黙と共に訪れることを知っていた。

茂る木蓮(もくれん)の木の葉は、風が吹き渡るたびに彼方に見える入道雲へその騒がしい手を伸ばした。
少年はこんなとき沈黙が訪れる予兆に息を殺した。風の合間、葉擦れのざわめきが消える瞬刻のうちに、日差しが煌めき、葉脈を透かして少年の双目(そうもく)を釘付けにした。
規則性を抱えた古から続く美しさ。
彼の眼(まなこ)は写真のようにそれを切り取って、心の襞(ひだ)に焼きつけた。
母の面影のように、生涯忘れないだろうと思った。

その鋭敏な魂は彼をたまに大人が思うより遥か遠くへ奔(はし)らせた。少年は陽炎(かげろう)の立つ見知らぬ街の見知らぬ埠頭(ふとう)で自転車を降りた。
船を見るのは初めてではなかったが、巨大タンカーの船首と昏い(くらい)海面がぶつかる一種異様な波の昂(たか)まりは、不気味さを通り越して彼の胸を圧倒した。
そして海鳴りが消えた。かもめも消えた。スクリュー音も消えた。彼の耳がすべてを忘れた。
ただ、眼前に泡立つ波が、彼を昏い海底まで連れて行き、また戻ってきた。
想像力は恐ろしい武器となり少年に畏怖(いふ)の念を教えたのだ。黙する感動が彼を震わせた。

刻が周り、また夕暮れには別格の魅力があるものだ。自分の影と並んで帰路につく少年は、ある踏切りの前で立ち止まる。
長く伸びた影法師は少年の後ろに隠れてしまった。
西陽を浴びて橙(だいだい)色に縁取られた電車が、轟音を従えて路(みち)を過(よ)ぎるとき、少年は陶然とその淡い鈍色(にびいろ)の影に敷かれる自分に酔いしれた。
そしてまた、沈黙が熱せられたレールの上を奔るのを感じた。
美しい。
総じて美しい沈黙の中に、少年は夢の断片を託すのだ。
夜が訪れ、漆黒の中へ入ってゆくとき、それは心強い友となる。

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