トリオ・ロス・パンチョス べサメムーチョを聴きながら
生垣の影、苔生(こけむ)した岩の周りを彷徨っていた羽黒蜻蛉(はぐろとんぼ)も消えた。
9月も終わろうとしている。
あの人と出会った陽が長い夏の暮れ時からちょうど1年が過ぎて、わたしはひとりぼっちなのに、それが寂しいとも思わない。
朝でもなく夜でもない、締め切った遮光カーテンがもたらす甘だるい時間。
冷房を27度に設定して、扇風機の微風の中に泳ぐ魚のように浮遊しては、寒気を感じて布団にくるまる無為を繰り返す。眠るでも起きるでもなく三島由紀夫の「真夏の死」という短編小説を半ば読みすすめては止め、スピーカーからべサメムーチョが途切れることなく空中に流れ出す長い長い時間。何かしているのだが、同時になにもしていない、この怠惰な集中力と、私というあやふやな存在が煩わしかった。
「黙ってくれる? あの人はいま わたしと夜の女王と ハートの重さをはかりにかけてる最中だから…」
などという謎の詩句(しく)が浮かんでは消えた。
愛情って一度胸の中に抱(いだ)いたら、誰かに注ぐまで、魔法で睡るお姫様みたいに来(きた)るべきときをただ待ってるなんてできやしないんだ。それは抱(いだ)くやいなや、すぐ隣にいる者に寄り添うよう求め出したり、或いは今まで友情で守られてた人を嵐の危険に巻き込んだりする。
愛は災厄。
と、くらくらする頭の片隅で考えながら、べサメムーチョを聴く。
じっと、わざと聞き入る。
「キスして
わたしにたくさんのキスをして
まるで今夜が最後の夜のように」
歌詞の意を理解していながら、わたしの頭の中には古い映画のフィルムが流れていて、死を決意した女の長い髪が、雷雨にうたれて白い身体にぴったり張り付き、終わりだ、終わりが近づいているよと暗く低く囁いているように聞こえた。
そんなわかり易い絶望感に身を委ねられたら。前時代的感性のもたらす快感はときにわたしを途方に暮れさせた。
窓の外で死に際の慟哭(どうこく)を聞かせる蝉の生き残りが、なぜだか羨ましく感じられて、涙したのはいつのことだったか、と思いを馳せる。
「キスして
わたしにたくさんのキスをして
まるで今夜が最後の夜のように」
そう訴えた夜が、確かにわたしにもあった。
乾いた国の乾いた季節…確かにわたしにもあった。