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『進化思考』の生物学監修の経緯と専門家の役割


経緯

 太刀川英輔氏著『進化思考』(海士の風)は、「生物進化」からヒントを得た、アイデアを生み出す「思考法」である。
 私は太刀川さんと一度お会いしたこともあり本書を読んでみると、生物進化の記述に誤りがあった。そこで太刀川さん本人に、誤りのうち大きな点を指摘した。すると、太刀川さんは間違いを修正したいとのことだったので、最初は、私が気づいた大きな点だけを説明するつもりであった。
 同時期に、デザイン学会での伊藤潤・松井実氏らによる『進化思考』の批判講演や、ツイッター(現 X)上で『進化思考』の進化に関する誤った説明に対する批判投稿がされていた。
 そのような経緯の中で、太刀川さんと出版社から、生物進化の記載についての修正をしたいので、監修してほしいと依頼された。そして、私は、後述する理由により、監修依頼を引き受け、知り合いのポスドク研究者とともに、生物進化についての指摘と修正に協力した。(このポスドク研究者の人の方には、無理やりお願いしたわけではなく、納得の上、引き受けて頂いた)
 そして、『進化思考[増補改訂版]』は2023年12月に出版された。同12月に、伊藤潤氏・林亮太氏・松井実氏著『進化思考批判集』が出版された。その後、私が『進化思考[増補改訂版]』を生物学監修したことに対する批判が、進化学会に対する批判(私が当時進化学会の副会長(現会長)であることから)として、SNS上で投稿された。そこで、なぜ私が本書の生物学監修を引き受けたか、について改めてお伝えしたい。

なぜ『進化思考[増補改訂版]』の生物学監修を引き受けたか

 生物進化について触れている一般書は、数え切れないくらい存在する。その中には、間違った生物進化の解説をしたり、間違った進化理解をもとに議論を展開したりする本が少なくない。ビジネス書、思想・哲学、社会科学や人文科学書において、誤った進化の比喩や、人間の進化について間違った記述があり、また生物学や科学書においても同様で、進化学において受け入れていない考えを生物現象の説明に用いているようなものある。
 特に問題なのは、誤った進化の現象や仕組みを解説したり、積極的に広めようとしたりする本である。これらの本は直接批判すべきものもあり、私も自身の本で批判したり、直接著者に指摘したりしたことがある。
 一方、『進化思考』は進化そのものを解説しようとする本ではない。生物進化について述べているものの、思考法の一般書である。生物進化についての記述に誤りがあり、一般読者に進化の間違った理解が伝わるのは大きな問題である。しかし、発想法・思考法自体の説明は、生物の進化現象を独自に解説しようとするものではなく、科学的に誤った言説を広めようとするものでもない。
 私は、『進化思考[増補改訂版]』の生物学監修の依頼を受けることには迷いがあったが、次の理由でお引き受けした。
(1) 太刀川さん自身が、進化についての自分の誤った理解を正したいという熱意があった。
(2) 『進化思考』(旧版)が多くの人に読まれ、子どもの教育現場や企業でのワークショップなどで活用されており、一般の人に進化についての誤解が広がらないようにするためには、『進化思考』の生物進化の記述を批判するのではなく、正しく修正してもらうことが進化生物学者の役割である。
(3) 『進化思考』は、生物進化についても記載はされているが、生物進化を理解するための解説本ではない、と明確にすることが重要である。

生物進化に関する箇所の修正について

 『進化思考[増補改訂版]』には、「生物や進化についての記述」と、それをヒントとした「思考法の解説」がある。生物学監修にあたっては、前者の「生物や進化についての記述」を中心に、誤りや誤解を招きやすい箇所の修正を提案した。
 一方で「思考法の解説」は、進化をヒントに独自に考えられたものであり、生物進化についての解説ではない。たとえば、進化思考の考え方や手法で用いられている「選択」「変異」は、進化学で用いられる用語があくまで比喩的に使われており、厳密に生物進化と対応しているわけではない。生物学的には正確ではない表現であっても、太刀川さん自身の思考法を解説している箇所は修正を指摘していない。
 『進化思考批判集』は『進化思考』(旧版)への批判集として、『進化思考[増補改訂版]』とほぼ同時に出版された。『進化思考批判集』における指摘は、以前ウェブ上で公開されていた批判点について確認し、修正した。しかし、進化についての概念的記述は、進化学の専門家でも考え方が異なるものもあり、指摘のとおりに修正されていない箇所もある。
 繰り返しになるが、『進化思考[増補改訂版]』は思考法についての一般書である。修正の指摘にあたっては、太刀川さんの独自の表現を変えてしまうのは適切ではないという思いがあった。そのため、読者の誤解につながらないことを前提に、進化についての解説書に求められる厳格な正しさよりも、太刀川さん自身の表現を重視したところもある。
 私たちが関わった生物学監修によって、進化思考で言及している生物の進化や現象の大部分は修正できたと思う。しかし、それでも完全に修正されたとは言い切れない。また、進化思考の記述が生物進化そのものを説明していないとしても、読者が誤解をしないとも断言できない。そこで、増補改訂版に記載した「増補改訂版の協力にあたって」では、『進化思考』の記述が「生物進化のすべてを正確に述べているわけではない。生物進化について正しく理解したい方は、進化学の専門家による解説書などを読んで理解を深めていただければ幸いだ」という注意書きをつけた。

生物進化以外の箇所について

 『進化思考』は、生物進化プロセスをヒントにしているものの、その思考法のアイデアは、自由に発想して作り上げたものである。そのために、研究者が解説書や論文を書くのとは違って、太刀川さんの直感的な感覚で書かれた発想法・思考法である。
 『進化思考批判集』のなかで、デザインの解明を研究する研究者の立場から、伊藤氏は、進化や生物学に関する記載の誤り以外に関して、『進化思考』の以下の問題点を批判している。

悪文である(特に「創造」に関して)
 
伊藤氏は『進化思考批判集』のなかで、特に「創造」の章の文章のわかりづらさや論理矛盾を指摘している。増補改訂版では、もう一人の研究者の助けも得て、いくつかの論理矛盾点を訂正したが、太刀川さんが自身の思考法を解説している箇所の多くは、修正を提案していない。
 学術書には記述の正確性や論理性が求められる。しかし『進化思考[増補改訂版]』は学術書ではないので、読者に間違った理解を刷り込むような記述でない限り、文章の良し悪しは様々な読者の評価に任せていいのではないかと私は思う。
可能な限りファクトチェックを行ったが、見過ごしている可能性は否定できない。どのような書物であれ、間違った事実の記載は避けるべきだろう。明らかな事実誤認があった場合、太刀川さんと出版社の海士の風が正誤表などを公開することを希望する。

「変異」で人間のエラーに関する考察がない
 
伊藤氏は「人間のエラーすなわちヒューマンエラーに関する考察がない点も問題である。そもそも DNA の(突然)変異と人間のエラーを同列に語ることに無理があると思うが、無理やり対応させるとするならば、少なくともヒューマンエラーに関する研究を参照すべき」と批判している。この批判は『進化思考批判集』で初めて知ったので、『進化思考[増補改訂版]』では反映されていない。
 変異が生じる過程を述べる際にヒューマンエラーに言及することで、進化思考における変異というものの考察が深まるかもしれない。そして、ヒューマンエラーについて述べるとしたら、伊藤氏らの指摘のようにドナルド・ノーマンやジェームズ・リーズンを引用する必要があるかもしれない。

「変異の9パターン」に剽窃もしくは意図的でない剽窃の疑いがある
 
また伊藤氏は「オズボーンのチェックリスト」として知られる「転用・応用・変更・拡大・縮小・代用・再利用・逆転・結合」と、進化思考の変異のパターンが類似しているにもかかわらず、その類似性に言及していないため、「剽窃」もしくは「意図的でない剽窃」ではないかと指摘している。
 『進化思考』(旧版)では、オズボーンの考えや著作の一部を数カ所引用しているが、「オズボーンのチェックリスト」と「進化思考の変異のパターン」の類似性は明確には触れられていなかった。
 しかし、『進化思考[増補改訂版]』では、「オズボーンのチェックリスト(SCAMPER 法とも呼ばれる)やTRIZなどこのパターンに近い手法はあるが、なぜパターンが発生するのかは語られてこなかった(p.86)」「こうした発想法や戦略の類は、その成り立ちの都合上、効率よく発想するための方法論(HOW)に終始していた。その中には創造が起こる不思議を自然現象として説明可能な形で論じた考え方はほぼなく、さらになぜその発想法で私たちが創造できるのか(WHY)に答えてくれるものは見つけられなかった。(p.56)」と引用し、進化思考との類似性や相違点が述べられている。
 また、私も「増補改訂版の協力にあたって」において、「「オズボーンのチェックリスト」では、弛緩、逆転、結合、拡大などのような発想法を提案しており、これは進化思考で解説している「変異」の考えと類似している」と指摘した。ただ、類似していると誤解されやすい箇所は、どこが類似しているのかを明確に記載するように、アドバイスをしたほうがよかったかもしれない。
 学術論文や学術書では正確な引用の記載が求められる。一般書においても、他の著作の文章をそのまま引用する場合は、引用元の記載が必要である。また、他人のアイデアを自分のアイデアのように語ることは、問題がある。しかし、一般書において、他の文献を読んで著者の独自の解釈に基づいて書かれた文章であれば引用する必要がない場合もある。
 『進化思考[増補改訂版]』では、オズボーンのチェックリストを引用したうえで、独自の解釈に基づいて書かれた文章であるため、学術論文でみられる剽窃にはあたらないのではないかと思う。

進化学の専門家としての役割と責任

 進化学の専門家が、適切な生物進化の仕組みを一般の人に広めるには、一般向けへの正確な解説の普及が必要である。私も、拙著ダーウィンの進化論はどこまで正しいのか? 進化の仕組みを基礎から学ぶを出版するなど一般の方への適切な進化理解の普及に努めたい。
 前述したように、太刀川さんは進化について適切に理解し、進化についての記述を修正したいという熱意があった。そのような依頼に応えるのは、専門家の役割だと私は思う。科学的に間違った疑似科学本に、私がお墨付きを与えたという批判をしている人がいる。
 しかし何度も述べているように、この本は、科学的に現象を説明したり科学的な事実を伝えようとしたりする本ではない。また、進化についての解説は、できるだけ誤解が少ないよう修正している。さらに、「増補改訂版の協力にあたって」では、「生物進化のすべてを正確に述べているわけではないので、生物進化について正しく理解したい方は、進化学の専門家による解説書などを読むように」としている。
 このような点からみて、本書が疑似科学本であるという指摘は全く正しくない。そして本書に限らず、専門書にしても完全に誤りのない本はほとんどない。依然、修正点がある場合は、太刀川氏や私に直接指摘してほしい。
 私が生物学監修を引き受けたのは、私個人の責任である。現在、私はたまたま進化学会の会長に選任されている(増補改訂版に関わった時期は副会長)。太刀川さんも私が進化学会の副会長であることを理由に、権威づけをしているわけではない。学会役員であることと、今回の監修を引き受けたこととはまったく関係のないことである。
 しかし、学会が権威づけをしたというように捉える人がいることを想定できたかもしれない。私としては個人的な仕事だったが、自身の立場を考えれば、監修の経緯・意図の発表の仕方などをもう少し丁寧に説明して誤解を生まないようにすべきだったかもしれない。私は監修によって「『進化思考』は進化学的に間違いがないので推奨する」という保障を与えたかったわけではない。「『進化思考』はあくまで思考法の本であり、進化の理解は適切な教科書や解説書を参照してほしい」ということを伝えたかった。
 生物学監修に対する意見や批判を私は真摯に受け止める。だが、SNSなどによって間接的かつ一方的に批判している方がいる。また、批判の詳細や進化思考の改訂にどのように私が関わっているかを把握せずに批判者の意見に賛同している方もいる。そのような健全とはいえない批判を行うのは適切でない。特に、それを研究者が主導的に行っているとすると、研究者の公正な態度として問題だと思う。

最後に

 今回の一連の批判は、「一般書」の内容に研究者や科学者がどう対応するかという問題を提起している。研究者の立場から、研究者の論理で、一般書に対してどう批判したり、推奨したりするのかは簡単な問題ではない。どのような対応が、より適切に一般の方々の理解を助けるかは今後議論していく必要があるだろう。
 『進化思考批判集』の中で松井・伊藤の両氏は「批判をとおして進化思考を改善したい」としている。また、「本来の進化思考はデザインの解明に重要である」とし、それに取り組んでいると述べている。私の監修の目的も「修正をとおして進化思考を改善したい」ということであり、目的は同じではないかと思う。
『進化思考[増補改訂版]』では生物進化の記述が大幅に改善され、私の目的はある程度は達成されたと思う。しかし、修正すべき点が見つかれば、太刀川氏および出版社に修正とその修正点の公開を依頼したいと思う。批判のやりとりによって改善していくことは重要なプロセスである。
 しかし、不健全な方法で批判を広めていく態度は適切ではない。また、私が監修したことへの批判に賛同している方々は、批判者の意見だけではなく、両者の意見を比較し、さらには『進化思考[増補改訂版]』や『進化思考批判集』を読み、自らで正当な判断をしてほしい。
 ご意見はこの記事のコメント欄からお寄せください。

  • 選択と適応という用語の使い方に関しては、研究者でも考えが一致していない。その点については以下の記事を参照してください。



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