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自分の中にいる冷酷な怪物
「飲みにいかないか?」
10数年ぶりに来た友人からの連絡に、とても嬉しくなった。
お互いのスケジュールがなかなか合わず、先日やっとそれが実現した。
久々の再会で彼から言われたのは「全然変わらないね」という言葉だった。
僕は「変わらないね」よりも「変わったね」の方が嬉しいタイプなんだけど、
みなさんはどうだろうか?
なぜかというと、「変わらない」と言われると、僕のひねくれた性格がもろに出てしまうんだけど、「昔のままで努力してないね」と
言われてる気がしてしまうからだ。
だけど、今回彼から言われた「変わらないね」は、とても嬉しかった。
お互い会わなかった時間の中で、死ぬほど色んなことがあった。
経験、スキル、価値観、そして昨年ダイエットしたということもあって、生まれ変わるくらいの変化があったと自分では感じていたから、”変わってない”なんてことは正直ありえなかった。
ではなぜ彼は「変わらないね」と言ったのか。
ここからは僕の仮説なんだけど、おそらく変わらないのは、”彼と僕の距離感”なんだと気付いた。
中学、高校が同じ彼とは、昔から居心地の良さを感じていた。
お互いマイペース。一緒にいても積極的な会話はあまりない。
でも、一緒にいると落ち着くし、彼の独特の価値観にはいつもハッとさせられた。
「友人」というか「心友」。
そんな言葉がしっくりくる。
僕と彼の心の距離感は、何年経っても変わらないままだった。
だから、変わってなくて良かった。
むしろ変わってないことが嬉しかった。
場所を移した2件目のスナックで彼からもう一つ。
「お前が昔から怒ったことを見たことがない」
僕はこう答える。
「イライラすることはあるけど、昔から沸点が人より高いんだよね」
咄嗟に出た言葉をいつものごとく深堀りしたくなった。
他人との関係性って僕の中では大きく分けると4つになる。
「好きな人」「普通の人」「嫌いな人」「どうでもいい人」
僕がなぜあまり怒らないかというと、「嫌いな人」が少ないんだと思う。
「嫌いな人」が少ないのは、「どうでもいい人」の割合が多いからではないかと思う。
嫌いな人であれば、喧嘩になったり、言い合いになったりする。
嫌いな人だから、会うだけで嫌だ。憂鬱だ。できれば会いたくない。
話もしたくない。同じ空間にもいたくない。
だって嫌いなんだもん。しょうがないじゃん。
そしてどうでもいい人は、本当にどうでもいいからその人の話も聞いてないし、
逃げられるなら逃げる。
向き合おうとすらしてないから、何を言われても自分の心に響くことはない。
最悪だけど、どうでもいい人と話すよりも、自分で音楽を聴いたり、本を読んだりしてる方がはるかに良いと思っちゃう。
悪気はないので、許してほしい。
意地悪したりはしないから。大人だからね。
僕の中で「どうでもいい人」の割合が大きいから、怒ることもない。
だってその人達への感情って”無”だから。
沸点が高いのは、実はこれが理由。
よく勘違いされるけど、僕は優しいわけじゃない。
むしろ冷酷だとさえ思う。
時々自分が怪物なんじゃないかと思う時がある。
それも、とても鋭利な爪を隠し持ってて、どこにでも行ける大きな羽根を持った醜い怪物。
そいつはいつも心の奥にいるようで、実は見えないけど近くにいる。
自分自身が何者なのかを探るには、こういった醜い部分もオープンにしていく必要があるんだと思う。
反対に醜さを理解できるから、美しさを際立たせることも出来ると思う。
全ては陰と陽の関係のように、対になってる。
どちらも愛すべき自分なんだし、切り離すことは出来ない。
その代わりに、好きな人へは過分なくらいの愛情を注ぎたい。
後悔しないくらい、何度もぎゅっと抱きしめられるような、大きな人間に。
僕にとっては「どうでもいい人」も、きっと誰かの「好きな人」
幸せが循環することを、心から祈っている。
今日もいい一日でありますように。
感謝を込めて。