PR発想、或いはイチブトゼンブの話。
僕は就活している時からPR(Public Relations)という概念がとても好きで、憧れがある。
最近ではよく「PR発想」という言葉が都合よく消費されていて、解決できない課題に対しての漠然とした術として、何か自分たちのロジックでの限界を押し付けているように見える。
そんなPRという概念について思ったことを書いてみようと思う(考える機会があったので、学生なので大したことは言えませんが…)。
イチブトゼンブ
PRという概念は、組織や個人の「一部」であると同時に「全部」であるなあと思う。「一部」というのは、組織や個人の活動の一環としてのPRであり、一般的な解釈、実態であると思う。しかし、同時に全部でもあると僕は思っている。
この「全部」というのは、組織や個人が持つ「意味」においてそのすべてがPRであるということだ。というのも、組織や個人の意味における主体は、それら自身ではなく、それらを意味付けしているStakeholdersである。であるならば、PRはその意味付けをもたらす・つなぐ関係性であると言えるため、組織や個人の意味の全体がPRであるのかもしれないと考えている。
こう考えると、腑に落ちる部分がいくつかある。例えば、継続事業体としての企業にとってPR活動は、利益獲得のためにStakeholdersとの良好な関係を築くという、目的のための「一部」である。それと同時に、その企業が存在している「意味」において、その主体であるStakeholdersとの関係性についての「全部」でもある。この2つを混同して考え、意思決定がなされるとチグハグな結果とフィードバックが続いてしまうのかなあ、と思っている。
「PR発想」というのは、このイチブトゼンブ的Stakeholdersとの関係性を基にした発想という意味で使われるといいなと個人的には望んでいる。
どのレベルでもPR発想
企業に限らず、個人レベルでもおなじだと思う。例えば、このnoteは僕個人のPRであるし、僕の活動の「一部」であり、パブリックになっている僕の「全部」としてのPRのひとつでもある。
もっと言えば、ひとつのツイートでもPRである、匿名実名関わらずその人格におけるPRであり、もしその関係性で良くないアクションがあれば炎上という形でペナルティを受ける。
ぼくらは別に、何かの目的に即してツイートしている訳ではなく、ひとりの人格(Identity)の意味をもって、フォロワーやその他のユーザーとの関係を紡いでいるだけである。リアルな世界でも、周囲の人間と関係性を維持するのは、リアルな人格の維持そのものであると思う。僕らのアイデンティティを意味づけしているのは、僕らに関わる全ての他人であるのだろう。
まとめときっかけ
漠然と抽象的で、実社会にどれだけ価値があるかは良く分からないが、学生として考えられるのはこんなことであった。正しいかどうかも全然わからない。たぶん考え続けることが大事だとおもうので書いてみた次第である。
きっかけになったのは、"しみこむPR" というイベント。こういったコミュニティ的な議論の場は本当に有意義だったし、自分でも作っていきたと切に思える、素晴らしい取り組みでした(学生でも真剣に受け入れていただける懐の深さには感謝です)。
自分の拙い考えでも、少しでも議論の幅が広がればと思っての考えのシェアでした。いろんなことを省いて書いたので、これからもう少し具体性と論理的根拠を深めていきたいと思う。
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