いたむ話。

amazonプライムビデオで、アニメ『CLANNAD』を見ている。いつか機会があれば見ようと思っていた作品で、風子ちゃん野中藍さんなのか、と今になってからの発見もある。

涼宮ハルヒの憂鬱』のリアタイ世代である。『消失』は劇場で見た。が、それ以前や以降の作品でリアタイ出来たのは『らき・すた』『free!』くらいであろうか。『らき・すた』はニコ動最盛期にMADやカラオケ『持ってけ!セーラーふく』がとても楽しかった。

『CLANNAD』は原作が泣きゲーの作成会社と名高いkeyの作品で、しかし大人向けゲームであるから原作を完全に知っている者はわたしの世代ではどのくらいだろう。

今現在、わたしが見ているのは『CLANNAD』10話、天才少女の挑戦である。先程風子ちゃんは夢を叶えた。

アニメ『CLANNAD』は自己紹介パートが見事だ。アニメ第一話ではキャラ付けが確りと行われ、ある程度の名前と顔を一致させる。デザインの都合上、色彩と髪型と声で覚えて行くことになるが、これはアニメならではの手法であるのでわたしは好きだ。そしてことみちゃん編に入って、風子ちゃんの時と同じくメインキャラの自己紹介パートがあった。各キャラが自分の名前と簡易的な所属を述べるだけであるのに、キャラクタに沿った自己紹介の仕方が見事に書き分けられている。トトロの自己紹介は衝撃を一気に浴びせてくるが、キャラクタがどういう人物なのか、キャラクタが三次元にいればどんな言葉遣い、その際の仕草動作制服の僅かな違いまで、きっちりと描き分けられている。『らき・すた』の起立礼着席のあれである。

現在10話のエンディングが流れている。

わたしが気付いたのは、わたしの視聴の仕方の違和感である。エンドロールの文字を必死に追っている。

わたしはそもそも「誰が作ったアニメ」というのに余り興味のない人間である。アニメが好きで、そこにあるのが当たり前の存在だったからだ。小林靖子さん脚本か、じゃあ好きな筈だ見よう、たつき監督だと?信じるに決まってんだろ!池広瀬音楽じゃん浸りに行く〜〜💞💞といった塩梅で視聴を決める程度に、『なにがし監督待望の最新作!』とか言われてもピンと来ない。

エンドロールの声優、脚本は割と見るほうではある。声優が好きで、脚本も好きだからだ。これはわたしがアニメを一種の教材としても見ている関係があるかも知れない。教科書に『羞恥心と自尊心に追い込まれる話』『安楽死の如何を問う話』が載っていて、中島敦や森鴎外の名前を覚えない事と少し似ているのか? 睡蓮を見てモネの名を覚えない事と似ているのか? ちょっと喩えが自分なりに頑張っても解りづらい。

エンドロールの女性と思われる名前の多さにまず吃驚した。

女性キャラの指先まで気の入った動き、瞬きの仕方、アップルパイの輝き。教科書の陰に隠れがちな、一生使える補助教材的な存在のアニメーションに思える。

わたしは絵描きであるから、アニメーションを見る際は、作品哲学やストーリーを深読みし楽しむに加え、「アニメとしての表現」「構図表現」「絵画的表現」「技術的側面」「空間の描き方」「キャラクタの描き方」というふうに見る。これ下手するとニート一歩手前のやつ。 

わたしはあの、悲愴に不条理に凄惨に、奪われ焼かれたたましゐを、どんな風に悼み、哀しみ、祈れば良いのか徐々に不安になっている。

エンドロール、スタッフロールに並ぶいくつもの職人さんの名前の数々、再生数も支援になるとどこかで聞いたが真偽は知らない。ただ、amazonプライムビデオに『CLANNAD』が見放題になっていたから見ている。先も述べたが、機会が出来たので見ている。
けれど事件と切り離せない自分がいる。

ひょっとしてコンテンツ化していないか?と自問する。

アニメというものを、子供の頃から大好きな、絵が動くという不思議な世界を純粋に楽しんでいた、そんな自分が自分から、アニメを楽しめないようにしていないか?

だってエンドロール、スタッフロールの名前の方々は、職人ではあるが、芸術家であり、また哲学者なのだ。そうでなければあんなに見事なアニメーションを作ることは不可能で、きっと子供のわたしのように、楽しんでくれたら良いなと作ってくれたものに違いないのだから。

因みにことみちゃんの真相が出た13話視聴現在、わたしの推しは坂上智代さんである。強い女性は大好きだ。

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