安西均を読む
十一月 安西均
鐘が鳴りやむ 鐘が・・・・・・
ひとしきりそよいでゐた木漏れ日のように
雲が滑ってゆく しぐれの雲が・・・・・・
大きな黒板拭きのように一日を消しながら
天の小学校もやっと放課後どきといふのに
何かの償ひに居残された少女が一人
少女は何度もエレミヤ哀歌を暗誦している
しかも第一章第一節から なんと大変なことだろう
(哀しいかな昔は 人の満みちたりしこの都邑(※みやこ)
いまは寡婦のごとくなれり)
ヤモメとは鳥の名前か知ら
鳥ならばぼくなんかよりふしあはせな鳥に違ひない
ぼくは少女がゆるされて帰ってくるのを待っている
淡いしぐれに濡れながら 残り少い一日をいつまでも
☆
僕はこの詩の、全体のイメージを掴むことができません。まず気になるのは、詩に出てくる「ぼく」の視点です。この詩を読んだだけでは、「ぼく」が教室にいるのか、外にいるのか、それとも、地から天を眺めているのか、さっぱりわからない。ただ、「淡いしぐれに濡れながら」とあり、「天の小学校」とあるところを見ると、どうも地上にいて、地上にいながら、いろんなところへ視点を動かせるような、そんな面白い視点なのではないか?と思います。これは、はっきりとは明示していないので、解釈は自由に許されているのでしょう。または、視点が自由であるということが、この詩の読み方なのかもしれません。
さて、その「ぼく」は、鐘が鳴り止み、雲が流れてゆくのを眺め、そのまま天を仰ぎ見ます。すると、そこには小学校が見え、一人の少女が居残っている。他の生徒はすでに帰っているのでしょう。一日が終わりかけているところを見ると、周りも静かで、何一つ音がしないのかもしれません。時間を移りかわりを示すものが周りには存在しない。時間が止まっているようにも思える。そんな場所で、少女は何回も、エレミヤ哀歌を暗誦している。
エレミヤ哀歌にしたのは、やはり意味があってのことですから、この哀歌は全体のモチーフになっているのでしょう。発想がここから始まったとも予想できる。もし、エレミヤ哀歌を暗唱させるのなら、どこで、誰が暗誦するのか。好きな歌を、好きな場所で、自由にセッティングするならと安西さんが考えたら、このような詩になったのかもしれません。時間が止まり、人がいない場所で、帰りたくても帰れない少女が、歌を暗誦している。
なぜ少女は帰ることができないのか?これも、また詩の中では明かされていません。読み手の自由に委ねられています。また、「ぼく」もまた、少女との関係性が明かされないままに、しぐれに濡れながら、少女が帰ってくるのを待っています。なぜ、帰るではなく、「ぼく」の元に帰ってくるなのか、それもわからない。わかるのは、少女が暗誦している哀歌は、きっと、僕よりも不幸せで、哀しいのだ、ということだけです。
ですが、私の単純な読みですと、「少女」と「ぼく」は、初めて会ったにも関わらず、互いに、相手のことがありありとわかったように思うのです。それは、寂しさなのか、孤独なのか、何が鍵となったのかはわかりませんが、理由は何にせよ、僕は、少女を待たないといけない、と思ったと思うのです。なんて言えばいいのか、それは対して重い決断のような気持ちというよりは、学校の正門で一緒に帰る予定の友達を待つような、それをすることが当たり前というような、とても純粋な気持ちのような。
私はここまで書いて、この詩は、「待つ詩」なのだと感じます。待つ「ぼく」も、雨に濡れ、とても寂しいはずなのです。けれど、天を仰げば、それよりも寂しそうな人がいる。その人のためなら、その人が目に映っているのなら、「ぼく」はきっと、ずっと待ち続けると思うのです。
それは、安西さんも、同じだったように感じます。安西さんも、名前もわからぬ何かを確かに待っていた。そして、その何かとは、一体どのようなものなのかと考えたときに、エレミヤ哀歌を材料にして、このような詩ができたのではないでしょうか。
泉 安西均
忘却のように麗やかな一枚の光が部屋の隅にめざめている
この乾いた紙にそっと掌をのせてゐると
憂いのため それはすこし湿り気を帯びてくる
どこかでしきりに水を汲むけはいが聞えて
背のびした木々の幹や牛小屋の新しい藁束や
淡い紫の影を従へて立ってゐる村の無名戦士達の記念碑や
そしてわたくしが片方の手でやっと支えてゐるじぶんの額や
あらゆる物陰を移す澄んだ「時間」のようなものが
こころの厳のはざまからしっとりと溢れてくる
主よ
わたくしのこの永遠にとめどなく続かうとする
音楽をとめてください
わたくしはもう十字架の上でのように両手を拡げて立ったまま
それでも厳に落つるその影が腰を曲げて
何者かをしかと抱いてゐる そのやうな
一本の樫にでもなって冬のさなかを燦いてゐたいのでございます。
☆
とても美しく、視覚的な詩だと思います。まず、この詩の始まりは、部屋の隅にめざめている、一枚の光から始まります。光につける単位として「枚」というのは不思議ですね。しかし、いざこの詩を読んでしまうと、光につける単位としては「枚」がふさわしいと思ってしまう。それは、風が吹けば飛んでいくような、静かに、柔らかな、紙だと思います。
わたくしは、その一枚の紙を掌にのせます。すると、わたくしは憂いを感じてしまい、紙は湿り気を帯びてしまう。すぐに想像がつくのは、例えば、高価な骨董品を渡されたイメージです。落としてしまったら割れてしまうのではないか、と思うと、持っている掌からは汗が滲み、骨董品自体にも、その汗が伝わってしまう。しかし、なぜわたくしは、憂いを感じたのでしょう。次の段落からは、わたくしがいる空間を超えて、その光が見てきたような光景が次々と広がっていく。・・・・・・と、ここまで書いて詩を読み直すと、実は、この光景は光が実際に見たようなものではないのではないか?と思いました。これらの光景は、「こころの厳のはざま」から溢れ出たものであり、一枚の光を持つことによって、わたくし自体から溢れ出たものなんですね。一枚の光を持つことによって、わたくしが今まで受け止めてきた光、つまり、過ぎ去った時間のようなものを感じてしまう。それは、永遠に続くかのように思える。次に出てくる言葉、音楽というのも、時間の芸術ですね。
終盤。わたくしは、この時間を止めてくれ、といいます。それは、今まで感じてきた光、時間を、もう見なくていい、ということと同等なのではないでしょうか。その理由を読んでいくと、「何者かをしかと抱いてゐる」とあります。私はこのフレーズを読んだ時に、安西さんは、この言葉を言いたかったのだなと感じました。ここまで読んで初めて、うつろっていく時間や音楽に対するものとして、何者かを抱いているわたくし、という構図がはっきりとしてきます。永遠に流れるものでなくていい、そんな大きなものがあるというよりは、何か、小さくても、確固としたものを抱いていたい。その何者かとは?というならば、それは「主よ」であり、自分の信仰であり、自分と神との関係である。自分の信仰や、神との関係というのは、私の勝手な想像ですが、最後の「ございます」という文末から、心からの願い、心からの溢れた想いのような、真摯なものを感じるのです。こういう詩を読むと、自分の想いをこれほどまでに美しい形にしたということに、ひしひしと、私は感動してしまいます。
五月歌 安西均
生きる日のやるせないほどな羞らい。釣合いをとりながら立っている低い舷。ごらん。水の上にほのかに明滅する小さな虹。海のうぶらな瞳です。そのおだやかなまなざしに捕えられ身をくねらせていそぐ五月の島。寝そべった半島の胸のあたりを光る砂。えくぼほどにも意味のすくない赤い浮標。真昼の時間が停っている遠い岬。その岬のまうえで、いま何かに触れたよう ふと 宙返りする一匹のヒコウキ。ランチは一声うわずった笛の叫びをあげ 肩を擦りよせ網を抛る。ぼくの靴がすこし濡れている。やわらかい風に吹かれて海からあがるあなたが美しい。鮑とユデ卵を売っている店。乗合自動車が斜めに海に向いたまま憩っている。なんだか苛立った男が外から自動車の窓ガラスをたたいたりラムネを飲んだりしている。石垣の菫。神社の境内にはすこしばかり淫らな椿の花。鹿の角をぎっしり詰めた格子の堂。麦畑のそばでぼくはたおれて空を見ている。あなたはつっとぼくを離れる。しばらくあなたはいなくなる。ほそく澄んだ声ばかりが聞え やがてあなたは雲雀のように炎える翼でぼくの顔へまっすぐに降りてくる。あれが島の小学校。教師が肋木のうえの不器用なぼくを友達に嗤わせている。あれが島の砕石場。ぼくの心の遠い崖できらめく小さな鶴嘴。岩に寝て裸の男が話をしている。それも遠くて聞えない。あなたは帯から鏡をとり出す。淡い化粧。あなたの顔の裏で別の一枚の顔がゆっくり眠る。退屈したあなたは鏡に太陽を捕え仄白い樹の茂みにちらちらさせる。葉が瞬いている。身をふるわせている小鳥。ぼくの乾いた舌。砂。声にならざる言葉。ふと あざわらいの波の白い歯に咬まれて崩れゆく胸の砂文字。あ。含羞の頬をかくす掌。その掌の指を怖ごわと開いたような疎らな松の林を隔てて海を見る。徒労に病んだ太陽のうしろののったりとよどんだ海を。そこはもう風景とよぶにはあまりに寂しい沖。にがい永劫。ぼくの乾いた目から僅かに古い松葉の匂いがこぼれた。
☆
僕は初めこの詩を読んだ時に、なんて美しいのだろう、こういうふうに日常を書くことができたら、どれだけ素晴らしいのだろう、と思っていたのですが、今、改めて再読をしてみると、私は初めの部分しか読んでいなかったのだな、と思います。この詩の前半は、美しいイメージが溢れています。「寝そべった半島の胸のあたりの光る砂」「真昼の時間が停っている遠い岬」「鹿の角をぎっしり詰めた格子の堂」。これは文字通りに美しい。実際に安西さんも、五月に外に出て、これらの風景を見たのだろうと思います。ただ、この詩において重要視したいのは、初めの一文と終盤です。
初めの一文は、「生きる日のやるせないほどな羞らい」です。その次からは美しいイメージが続いていくのですが、それらのイメージを喚起させるには、この一文はあまりに暗い。これらの美しい風景を見ている、生きている私は、すでに憂いと悲しみを持っており、生きることに対して、また自分自身に対して羞らいを持っている。それにも関わらず、目に入るものは、美しく見えるというところが、まずこの詩における特徴だと思います。ただ、中盤に行くにつれて、「肋木のうえの不器用なぼく友達に嗤わせている」や、「退屈したあなたは鏡に太陽を捕えて仄白い樹の茂みにちらちらさせる」など、冒頭のやるせないほどの羞らいのイメージと、似ているような、どこか物悲しい、やるせない感じが海に反射する光の中に溢れてきます。光は確かに美しかった。しかし、その光はただ美しいだけなのか?これは、以前読んだ「泉」でも問われたテーマでした。
そして終盤にかけて、私は美しかった光の奥に、やはり、生きる日のやるせなさを見つけてしまう。「あ。含羞の頬をかくす掌。その掌の指を怖ごわと開いたような疎らな松の林を隔てて海を見る。徒労に病んだ太陽のうしろののったりとよどんだ海を」。ここで現れる、「含羞の頬」というのは、冒頭の「やるせないほどな羞らい」ですね。ここでは、含羞の頬を隠そうとしたものの、その指の間からは、隠すことのできない、よどんだ海が現れてくる。これは、海だけではない。私もそうですね。「そこはもう風景とよぶには あまりに寂しい沖。にがい永劫」なんです。
以前読んだ「泉」とこの「五月歌」を読んでみると、安西均には、永遠のように思える美しさの中に、徒労や寂しさを抱えている。それは、光にあり、流れてしまうからだと思います。私の中に止まることができない、抱くことができないものです。このような状態だと、光と共にうつろっている間は、私自身に悲しさを感じませんが、ふとした時に、何もない自分に気がついてしまうのではないでしょうか。自分の中に落ち着いて座れる、憩うことができる場所が、存在しないことに気づくのではないでしょうか。だからこの詩は、とても美しく、とても悲しい詩なのです。