自分史⑦武器を持たない理想の中で
気が付けば年の瀬を迎え、様々落ち着かない状況が続いている。
2019年が終わる。書き終わるころにはすでに2020年を迎えてるかもしれない。
ひとまず自分史の続きを書き進める。
2020年はさらにスピード感をもって人生を生きていきたい。
夢を叶えた。自分の夢だけを。
2001年9.11の同時多発テロをきっかけに僕は世界に目を向けた。
テレビの中で幾度も繰り返された映画を超えるリアルを見ながら、ブラウン管のこちら側にいることでは何もできないと気付き、自分の使命を感じた。
大きな勘違いだったかもしれないが、自分の出番なのだと強く感じた。
そこから7年越しであらゆる道を経て、たどり着いた夢の舞台だった。
まずはインターンとして、ここで生きれるのか、ここに自分できることがあるのかを見極めようとカンボジアの首都プノンペンに来た。
あまり覚えてないが最初の3か月は遊んでいるような毎日だった気がする。
インターンといっても子供と交流しながら、いろんな現場について回っただけだったが そこにいる自分が誇らしく、そこにたどり着いたこと自体がうれしかった。
そして3か月が経つ頃、自分はどこでも生きていけるだろうと確信していた。
だけど自分には何の武器もない。
ただ、当時自分が手に取る武器はほぼ決まっていた。
本を読んだだけだがエリザベス・キューブラー・ロスという医者の本に感銘を受けていた自分は、専門を持つなら「看護師」と思っていた。
そんなさなか、お世話になっていたNGOから声を掛けてもらった。
「長くいるつもりならば、一緒にここで働かないか」と。
3か月間、ずっと見ていてくれたらしい。
自分で言うのもなんだが、大体なんだってできると今は自負している。
ただその当時の自分はコンプレックスの塊だった。
同世代の人間は大学に通い、仕事をしている人間は同じ仕事を続けて頑張っている。
自分はすべて中途半端だと思っていた。
だから自分のマルチさを買われたのはこの時が初めてでいろんな経験をしていてよかったと思った。
全てが中途半端だが、歌を歌い、ギターを弾き、写真を撮り、多少なりとも英語を話し、適度に愛想もノリもよく、順応性もあり、適度な正義感があった。
待遇などには特に興味がなかったので不安はあったが即答で答えた。
7年越しの夢がかなった瞬間だったけど、しょせん職業としての夢に過ぎなかった と強くこの後思うことになる。
プノンペンの道端で
まだカンボジアに来て一か月ほどのころだったかな。
名まえも忘れたが、欧米系の施設でのイベントを手伝っている時に外の道端で初めて会ったのが嫁だった。
なぜかお互いヒッピーみたいな恰好をしていた気がする。
もちろんお互い一目ぼれ だとか気持ち悪い奇跡は起きてない。
ただ、自分に関してだけ言うと 2秒で気にはなっていた。
愛だ恋だとなれそめを語る気はないが、自分のすべてを包み込んでくれる女性だった。
時には夜中4時くらいまでリバーサイドで何かを語り合うこともあった。
でも、どこか影が見え隠れするような女性だった。
僕は彼女を表現する時によく「廃墟のような女性」だと伝える。
普通なら見過ごしてしまうような場所に大きな自己主張もせずただ美しく、ただそこにあるだけで何も拒まないが何色にも染まらない唯一無二。
彼女より美しい女もいわゆる「いい女」もこの世にはごまんといるのは分かっていたが、自分が人生の中で出会える女性の中でこれ以上はないだろうと確信できた。
そして付き合うからには絶対に別れちゃいけないと感じていた。
とにかく苦労ばかりかけていて感謝が絶えないが嫁への愛は変わらない。
彼女への愚痴なんか何もない。
こんな自分で申し訳ないとしか思えない。
武器も持たずに戦場に
カンボジアに来て現地スタッフとなってから、夢の舞台立ったという喜びで少し勘違いしていた。
訪問客の多いNGOだったせいかもしれないが、学生や海外慣れしていない日本人からすると現地スタッフとして働くことは「すごい」ことだった。
何がどう「すごい」のか、今となってはよくわからないがそのなんとなくの「すごい」という感覚に酔っていた。
結論から言うと僕は理想とイメージだけで武器を持たずに戦場いったようなもんだった。
昭和初期の戦時中のように敵と味方をイメージだけで創り上げ、国に身をささげることが賛美されていたように、自分を犠牲にして大変な土地で貧しい子たちの為にボランティア精神だけで取り組む。
それでも自分には何の武器(専門)もなく、それなりに自分のできることをやるしかなかった。
自分には支援というものが 現地の貧しさのためか、金をだすスポンサーのためか、暇な日本人と承認欲求を満たす為なのか 途中からよくわからなくなっていた。
基本的に反社会的平和主義者を自負していたからか、結果的に「ボランティア」「笑顔」という言葉が大嫌いになった。
国際支援が売り物なっていく。
そんな状況が自分には我慢できなかったが、またその枠の中にいることも認めざるをえなかった。
武器を持たないということが弱さなのだと気づかされた。
だから自分の十徳ナイフのようなか弱い武器が情けなくて人のせいにしていたのかもしれない。
自分にできることはなんだろう?と苦しみながら、本質的な支援を模索し続け、お世話になっていたNGOをやめることにした。
結果的にその選択で間違っていなかったとは思うが、そこから闇はさらに深くなっていったんだ。
続く。
次回 病む。
ありがとうございます。何かしら社会の役に立ったり、誰かの人生に影響するような記事を心がけていきます。 根が照れ屋なので 若干の不真面目は照れ隠しです。 ご承知おきを。