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行為資源とアフォーダンス1(行為の資源Ⅳ)

  これまでは、『行為資源』について、公園を「資源」と「道具」の対比によって捉えることからその言葉を見つけ出し、続けて、自作の住宅を例に挙げながらその特徴について説明しました。

 「行為資源と公園(行為と資源Ⅰ)」の中では下記のように書きました。

知覚や認知に関する理論、アフォーダンス理論では、人や動物が利用する物の性質のことをアフォーダンスと呼びますが、これまで述べてきた多くもそこに含まれます。『行為資源』という言葉は、アフォーダンス理論の視点の一部を、空間をデザインする際に使いやすいように抽出した言葉とも言えます。『行為資源』は公園に限らず、身の回りを見渡せば幾らでもありますが、(後略)

 このように、『行為資源』の考えは、アフォーダンス理論に大きく影響を受けているため、今回はこの部分を掘り下げ、それらの関係について考えていきたいと思います。

1)アフォーダンスと『行為資源』

 アフォーダンス理論は、知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンが60年代に提唱した知覚や認知に関する理論です。ギブソンは、外部からの刺激を感覚器が受け取り、それを脳が処理して意味にするというそれまでの知覚論に疑いを持ちました。眼や耳や皮膚などから伝わる感覚は、環境を知覚すること、つまり、そこでの行為を実行する根拠となる情報を得ることにはならないと考えたのです。そして、環境にはそういった情報があらかじめ存在しており、動物は、脳での情報処理を介さず、それらを直接理解していると考えました。その情報がアフォーダンスです。アフォーダンス(affordance)は、英語の動詞アフォード(afford)を名詞化したギブソンによる造語で、affordには、与える、提供する等の意味があります。

アフォーダンスは「環境が動物に与え、提供している意味や価値」である。よいものでも(食物や住まいのように)、わるいものでも(毒や落とし穴のように)、環境が動物のために備えているのがアフォーダンスである。(*1)

 ギブソンは、環境は物質、媒質(空気や水)、面(地面や壁)で構成されているとし、アフォーダンスをそれら毎に解説していますが、ここでは、物質のアフォーダンスについての分かりやすい解説を見てみましょう。

適当な大きさと重さをもった細長い対象は、振り回すことをアフォードする。もし打ったり、叩いたりするために用いられるときには、それはクラブ(club)かつち(hammer)である。もしそれが手の届かないところにあるバナナを引き寄せるために、(中略)用いられるならば、それは、くま手(rake)の一種である。(*2)

図版

 適当な大きさと重さをもった細長い対象、つまり棒には複数のアフォーダンスが潜んでおり、選び出すアフォーダンスによりクラブにも槌(つち)にも、くま手にもなります。単なる棒のままのそれは、それぞれの使い方ができるという意味で「資源」と言えます。一方、それぞれの使い道に特化して、それにしか使わないことを前提としてデザインを施された棒、例えば、ゴルフクラブや金槌は「道具」と言えます。とはいえ、バナナを引き寄せることもできるという面で、ゴルフクラブにも金槌にも「資源」の性格はまだ残っていると言えます。

 アフォーダンスは環境に様々に存在しますが、私たちは日々それらを複数組み合わせて自分に都合の良い成果を生み出しています。それが、使うことをはじめとする私たちの行為です。そして、使い方が明確に決められている「道具」ではなく、決まり切っていない「資源」状態の物や空間を『行為資源』と呼びます。また、「道具」/「資源」の対比は、人工/自然の対比に大まかに対応します。私たちの身の回りは物も空間も、人工的にデザインされた「道具」で覆われています。「道具」の決められた使い方は、それに施された意図的なデザインに依るものもあれば、その文化での慣習に依るものもあります。一方、自然は「資源」に溢れています。例えば、大きな木は、登って回りを見渡す、日差しや雨を遮る、幹に寄りかかるなど、使い道がいろいろあり、どのように使うかは使う人次第です。そのため、『行為資源』は自然から多くのことを学ぶことになります。

2)『行為資源』の設計がめざすもの

 クラブやくま手といった「道具」は、特定の使い方を追求すればするほど便利になりますが、建築にとってそのようなことは便利と言えるのでしょうか?また、便利だとすれば、それを喜んで受け入れてよいのでしょうか?建築家の青木淳さんは下記のように述べています。

普通には、「いたれりつくせり」は親切でいいことだと思われている。でも、それが住宅全体を決めていくときの論理になることで確実に失われるのは、「原っぱ」に見られるような住む人と空間の間の対等関係である。しかし、見渡してみれば、住宅を取り巻く環境は、すでに「遊園地」に見られるように、空間が先回りして住む人の行為や感覚を拘束するのをよしとする風潮だろう。(*3)

 『行為資源』の設計も、「建築とは、自分を取り巻く環境は自分次第である、そういう感覚のために行う行為」(*4)とする点では志を同じくします。青木さんはその実現には、使い方の要求とは関係の無い、建築を形づくるルールが必要としています。そして、そのルールゆえに導かれる特別さに到達でき、かつ、それがたまたま使い方の要求を満たしている状態、そこで初めて、使い手と建築が対等の関係になれると述べています。一方、『行為資源』の設計は、使い方の要求から生まれる行為もそれ以外の行為(の可能性)もごちゃまぜに「資源」として建築に埋め込むやり方で上の志を目指す設計手法です。ごちゃまぜにするには『行為資源』に大小あるのが好都合ですが、それが、空間形式をはじめとする『間接行為資源』と、家具や造作をはじめとする『直接行為資源』に該当します。『間接行為資源』と『直接行為資源』の詳しい内容は、以前の記事を参照して下さい。

3)『行為資源』の公共性

 建築は、使い手を取り囲むひとつの環境なので、アフォーダンスの宝庫です。重要なのは、それを設計するに当たり、「道具」として意識するか、「資源」として意識するかです。特に、使い手の主体性を重んじたり、周辺住民や市民の積極的な参加が望まれる公共性の高い空間では、その意識の違いが結果を大きく左右することになります。なぜなら、目の前の空間が「道具」のように決まった使い方を求めてくると感じれば、使い手はそれ以上の関わりを自ら創造しようとは感じないだろうからです。『行為資源』は、建築と使い手を行為の可能性を介して結びつけるものであり、その設計では、建築が色んな使い手に色んな形で使い倒される光景を理想に思い描きます。

 日本のアフォーダンス研究の第一人者、佐々木正人さんは下記のように述べています。

アフォーダンスは環境の事実であり、かつ行動の事実である。しかし、アフォーダンスはそれと関わる動物の行為の性質に依存して、あらわれたり消えたりしているわけではない。さまざまなアフォーダンスは、発見されることを環境の中で「待って」いる。(*5)

 『行為資源』の中では様々な使い方が出番を待っています。「道具」とは異なり『行為資源』は、使い手が使いたければ使うことができ、使いたくなければ使わないことができ、幾つもある使い方から今欲しい使い方を選び出すことができ、新たな使い方がよければそれを探し出すことができる、幅広い次元の自由を保障します。よって、『行為資源』は行為の自由さの表現とも言えます。

アフォーダンスは、誰でも利用できる資源として環境にある。アフォーダンスはリアルであり、プライベート(私有)ではなく、パブリック(公共)である。エコロジカルな意味や価値の公共性は、知覚者の行為が「柔軟性」をもつこと、すなわち、経験や発達によって行為がその多様性の幅を広げ、同じことを異なる仕方でも行えるようになることに根拠づけられている。(*6)

 人は学習も成長も続けますが、その時々で同じ『行為資源』に異なる行為を見つけ出すこともできます。子供が大人になり身体が大きくなれば、ある『行為資源』に見出す行為は違ってくるでしょう。また、ある『行為資源』に異なる使い手が同じ行為を見つけ出すこともできます。他人の使い方を見て良いと思えばそれを真似ることもあるでしょう。つまり、『行為資源』で出番を待っている行為は、誰のものでもなく、みんなのものなのです。

 このように、『行為資源』は使い方を限定しないと同時に、使い手も限定しません。この性質は、多種多様な人々を迎い入れる必要のある公共空間に適した特性だと言えます。公共空間とは、色々な人々がそれぞれの目的を持ち、思い思いの居方で滞在することができ、かつ、気持ち良く共存できる空間です。そのデザインに有用なのが『行為資源』です。以前の記事でも書いた通り、これまでは住宅のような私的な空間でその実践を続けてきましたが、実は、『行為資源』は公共的な空間では更に有効性を増す設計手法だろうと考えています。

 『行為資源』について、今回は、アフォーダンス理論との関係について説明しましたが、次回は、身の回りの例からその特徴を考えてみたいと思います。


*1 佐々木正人「新版 アフォーダンス」岩波 科学ライブラリー 234、岩波書店、2015年、60ページ。
*2 J・J・ギブソン「ギブソン 生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る」サイエンス社、1985年、144ページ。
*3 青木淳「原っぱと遊園地」王国社、2004年、16ページ。
*4 同、11ページ。
*5 佐々木「新版 アフォーダンス」73ページ。
*6 同、75ページ。

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