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3話-柔術人生のはじまり
私の柔術人生は、神戸市垂水区の住宅街にあるプレハブ道場「柔専館」から始まった。
館長である宮本泰弘さんは、当時茶帯であのコムロックと言う技で日本の全柔術家を苦しめ、元柔道エリートの柔術家小室さんにも勝っている、所謂ダークホース(大物食い)の選手。
当時あまり使い手がいなかったラッソースパイダーの名手だった。
今でこそ当たり前の技だが、昔は宮本さんがそれをやり始めて「宮本ガード」と呼ばれていた。
そんな宮本さんの下で柔術を始めた私は、宮本さんは八割冗談で二割真剣なことを言う人と言う印象を持っていた。
ある日、宮本さんに
「柔術を強くなるにはどうすればいいですか?」
と真剣に聞く会員さんに、
「ステロイドやっていっぱい筋トレすれば強くなるで」
と真顔で答えている姿を見て、高校生の私には、大人でもこんな感じでアリなのか!と衝撃を受け、そんな型にハマらない宮本さんの下で柔術をやるのが楽しかった。
しかし、私の柔術人生の始まりは、トントン拍子にはいかなかった。
柔術を始めて3週間経ったある日、私の父親が交通事故で亡くなった。
それは、あまりに突然の別れであった。
父が亡くなる前日、道場に行こうとしていた私の夕飯に、父は鯛の味噌汁を作ってくれた。
そして、道場に行く前に「柔術頑張れよ」と言われたのが遺言になった。
今思えば、私はこの言葉があったから、今も柔術を続けているのかもしれない。
そして兄は、父が亡くなった時に私に「何があっても柔術を辞めるな。日本一になれ」と言ったのを覚えている。
私の中で「強くならなくては」と言う気持ちがより一層強くなった。
1週間後には、高校に行くより道場に通い、私の柔術の激しい鍛錬が始まった・・・訳でもなかった。
多感な時期に父がいなくなったせいか私はグレた。
悪い友達はあまりいなかったかもしれないが、悪いことはある程度やっていたかもしれない。そのお陰で柔術は行って週1か週2しか行ってなかった。
しかし、私は何もやっていなかったわけではない。毎朝腕立て伏せ1000回は欠かさなかった。
強くなるためには、技術よりまず体を鍛えなくてはと思い、腕立てふせを始めたのだが、これは今になって思うと良いトレーニングをしたと思う。
朝起きて眠りかぶりながら磨りあげ腕立て伏せを行う。
目が冴えてくる頃には500回終わっていたので比較的楽だった。
これを三年欠かさずやった。そんな高校生活だった。
柔術の方はとりあえず続けていた。
いつか総合格闘技をやりたいと思っていたので下地作りには必要だと思っていた。
始めて高校2年の時に青帯をもらった。
その間に試合は二回だけ出て二勝一敗と言う平凡な戦績だった。
青帯になってから試合に出るのにさらに2年かかった。
その頃には、高校を卒業していた。
私にとって青春の高校時代なんてものは全くなく、興味もなかった。
高校時代の思い出は、
「腕立て伏せをしていた」と言うことしか残ってなかった。